中里一日記

[先月の日記] [去年の日記]

1999年9月

9月30日

 「恋愛シミュレーションツクール」、どうよ?

 超ハ級長篇百合小説は現在358枚。マルチ越え作戦(オペレーション・オーヴァーマルチ)はいよいよ決定的な地点にさしかかりつつある。
 ハインリヒ、あれがモスクワだ。…見えるか?

9月29日

 私はアニメの専門家ではまったくないので、伝説のアニメ・王立宇宙軍を見たのは昨日が初めてだった。
 予想はしていたが、なんとも憂鬱な作品である。話が、ではない。その緻密さが、投じられたコストの大きさが――あえて言うならば浪費された情熱が、憂鬱だ。
 庵野の作画は凄い。異世界設定の徹底は凄い(しかしいくらなんでも三角形のスプーンはないと思う。もしかしたら南米で発掘されていたりするのかもしれないが)。が、だからといってそれが面白さにつながっているかというと、大いに疑問だ。「物理シミュレーションのごとき動画」や「等身大のスケールでのロケット打ち上げ」にトラウマのない人(私だ)が見て、面白いかどうか。

 物理シミュレーションといえばTVアニメの「ゾイド」である。
 「ゾイド」は物理シミュレーションをまったくやっていないような気がするのは私の気のせいだろうか。絵の綺麗さよりも動きのもっともらしさのほうがずっと重要だということが、「ゾイド」を見るとわかる。NHKの大河ドラマのOPの鳥のごとき、不自然きわまりない動きがたまらない。

9月28日

 DVD-ROMドライブ、Savage4ときて、DVDを見ないという手があるわけもない。というわけでPowerDVDを手に入れた。鑑賞タイトル第1号は王立宇宙軍。本当は映画のナデシコを見たかったのだが、レンタルビデオ屋になかった。
 どうも動き補償が有効になっていないような気がする。コマ落ちはゼロだが、絵が動いた瞬間の破綻が目につく。それともSavage4の動き補償はもともとこんなものなのか。
 画像は美しいというより正確だ。馬鹿馬鹿しいくらい正確だ。CRTで表示されているというより、セル画をそのまま見せられているような気がしてくる。制作サイドから見ればPC+DVDは理想の再生環境だろう。

 どうしたことか、IE5を使うと固まりまくるようになった。さっそくCPUがヘタってきたのか、それともHDDになにかが起きたか。いずれにしても嫌な感じである。とりあえずRainを入れ、ファンの駆動電圧を上げてみた。

9月27日

 いわゆるB21端子(BSEL)の除去を敢行した。成功。
 CPUMark99は36と、いくらか振るわない(37が目標)。オンボードのビデオのUMAのせいだろうか。ヒートシンク温度と外気温の温度差は16.6℃。ほぼ予想どおりである。

 各種ベンチマークでボトルネックを探したところ、YMF724を発見した。
 FSB66MHz時、Audio Winbenchで一番重いテストの負荷が50%を超える。オンボードのES1373なら16%程度だ。さすがはCPU負荷の小ささに社運を賭けるCreativeだけある。
 というわけで現在、オンボードのES1373を使っている。添付のドライバだとMIDIが「…どうよ?」という音になる。また、DOS窓のSB16エミュレーションがMAMEではコケる(SNES9xは通る)。Intelのサイトにドライバがサウンドフォントつきで出ているので取ってきたいが、17MBもあるので容易ではない。

9月26日

 榛野なな恵の「ピエタ 最終章」後編を読んだ。
 予想どおり捌けていない。理央のようなキャラを捌くには大仕掛けが要る。佐保子では無理だ。

 マシンの完全無音化に向けてまた一歩前進した。
 ケースの天板、CPUの真上に8cm角の穴をあけてファンを設置し、その上に電源ユニットを据え付けた。電源ユニット内のファンは取り外してある。CPUと電源を一つのファンで冷やし、さらにCPUと電源を垂直に配置することで対流を味方につけたわけだ。
 この改造の結果、CPUのヒートシンク温度は流入外気温との差10.5℃となった。今までケースの天井近くにたまっていた熱い空気を効率よく排出できるようになったのが効いている。というわけで、FSB100MHz化のため、いわゆるB21端子の除去を決意した。乞うご期待。
 HDDの隣室設置が実現した暁には、最後に残ったファンも排し、かわりにダクトを電源ユニットにつけて上方に伸ばし、煙突式に対流だけで冷却する予定である。ヒートシンク温度の外気温との差が、FSB100MHz化で倍・ダクト排気化で倍になって40℃、なんとかいける、という判断だが、どうなることか。冷却が足りなければ500cm3級のヒートシンクを投入、それでもだめならCPUとマザーボードを交換である。
 それにつけてもCeleronのコアに内蔵されているサーマルダイオードを使いたい。ヒートシンクの温度計ではまさに隔靴掻痒だ。

9月25日

 今日は私の誕生日である。が、「また1年生き延びた」というほかに書くこともない。

9月24日

 「With You」は少女まんがらしいことがわかってきた。少女まんがの登場人物になったつもりになれば少しも辛くない。
 そこで仮説:
 感情移入システムの選択を間違うと、どんな作品でも辛い
 というわけで、よいギャル作品の条件として、「用いる感情移入システムの明確な提示」を挙げる。

 CA810でFSB100MHzを実現する最後の手段に、B21端子除去がある。
 動作中にクロックを変更できない、元に戻すのが難しい、作業が困難かつリスクが大きい、などなど問題が山盛りなのでまさに最終手段である。非常に薄くて細い熱収縮性絶縁チューブがあればいいのだが。
 現在のところ、手持ちのヒートシンクの包絡体積が200cm3強しかないので、FSBを100MHz固定にすることはできない。やはりPLLのデータシートを手に入れるしかなさそうだ。が、半導体メーカが単なるエンドユーザの要求に応えてくれるとはとても思えない。うーむ。

 インターネット上での本のばらまきが起こらないことについて、新たな事実に気がついた。
 英語はOCRが完璧の域に達している(字体まで判別するという)のに、本がばらまかれているという話はまったく聞かない。英語でもされていないことを、まして日本語で、である。
 なぜ音楽はばらまかれて、本はばらまかれないのか。音楽にくらべて取り込みが面倒なせいなのか。パソコンの画面で本を読むのが辛いせいなのか。
 それとも、人間は本来、本など読まないものなのか。
 私は最後の説を否定できない。情報は、それを得るまでは、その値打ちを知ることができない。だが本は、その値打ちを知らせる前にコスト(購入費と読む時間)を前払いさせる。こうした先払いシステムが受け入れがたいものであることは、無線パケット通信について6月3日の日記に書いたときに論じた。
 先払いシステムの欠点から、雑誌連載という形式の利点を見て取ることができる。コストを一括で払うより、分割払いのほうがずっと安全、というわけだ。
 となると、ベストセラーはともかく、小説誌のばらまきはあってもいいということになる。もちろん、誰にでもわかるとおり、小説誌の読者はあまりにも少なすぎてお話にならないのだが。

9月23日

 認めたくないが、認めねばなるまい。
 インテルのCA810というマザーボードは、地雷物件だ。私は地雷を踏んだのだ。
 この板に使われているPLLはICS9250xx-10である。私がアキバで探したかぎりでは、このPLLを使っている板はほかに存在しない。ICSのサイトを見ると、データシートは公開されていない。i810用に作られた石らしいことがわかっただけだ(とはいえ、これは100MHz、もしかして133MHzを出せるPLLであることの証明になるので、一応の収穫ではある)。
 SoftFSBでクロックを設定するためのデータを手に入れるには、BIOSのリバースエンジニアリング以外の方法はない。しかも、それをしてもデータが手に入るとは限らない。ICS9250xx-10を使っていて、BIOSで66MHz以外のクロックを設定できる板のBIOSでなければならないし、そういう板は見つかっていない。
 クロック問題のほかにも、レイアウトが悪い。IDEのコネクタが上に寄りすぎていていて、ケーブルを刺すと5インチベイのドライブに当たる。最新のBIOSではデフォルトでCL=3に決め打ちする。
 が、私はまだあきらめたわけではない。PLLのデータさえわかればいい。が、新しい板を買うことを考えているのも事実だ。DVI出力つきでFC-PGAのいい板が出たとき、PLLのデータが判明していなかったら、新しく買ってしまう可能性がきわめて高い。

 セルゲイ・フルシチョフの「父フルシチョフ 解任と死」という本を読んだ。
 これは、悲しい本だ。この本は1990年に書かれた。ゴルバチョフはまだ失脚しておらず、ペレストロイカがソ連を再生させるかと見えていたときだ。
 いま、この本の読者は、後に生きるものの傲慢さをもって思わざるをえない。フルシチョフは完全に失敗した、と。
 私の持論の一つに、「市場経済と官僚制を同時に敵に回してはいけない」というのがある。どちらもゴキブリのように手ごわく、たとえ一方だけでも人間はそれを制することができない。二つをいがみ合わせ、分割して統治するほかに方法はない。だがフルシチョフはまさに市場経済と官僚制の両方を敵に回した。ありうる結末は、完全な失敗だけだ。

9月21日

 タブレットで絵の主線を入れるのは神業という気がしてきた。
 円を描くのは少しずつさまになってきたが、円の接線を引こうとすると、死ぬほど難しい。まともに引けるのは10°から45°の範囲くらい、それも百発百中とはいかず、うまく引けるのはせいぜい80%だ。うーむ。

9月20日

 今日の発見:
 USBデバイスは、接続しているだけで露骨にシステムのパフォーマンスを悪くする。特にジョイパッドとタブレットがひどい。
 …USB君、裏切ったな! 僕の気持ちを裏切ったな! でも今更ゲームポート接続のジョイパッドやシリアル接続のマウスには戻れないよ… うっうっうっ。

 Savage4の画質改善改造を行った。結果は上々。といってもSpectraのPEほどではないのだろうが。

9月19日

 ギャ会の討論において、「なぜ『BOYS BE…』はダメで『オヤマ! 菊之助』はOKなのか?」というテーマが話題になった。
 その場では結論が出なかったが、これはキャル理論にとって重要な示唆を含むテーマではないかと思われる。というわけで今考えてみる。
 まず、ファンタジー性の明示という要素が考えられる。『オヤマ! 菊之助』は徹底的にファンタジー性を正面に押し出しているが、『BOYS BE…』はそれほど徹底していない。次に、作戦範囲の広さが違う。『オヤマ! 菊之助』が「ちょっとエッチ」周辺に作戦範囲を限定しているのに対して、『BOYS BE…』はそれよりもやや広い。
 ファンタジー性の明示はいわば防御であり、作戦範囲の狭さは力の集中をもたらす。というわけで次のような等式を立ててみた。「説得力=コスト÷(作戦範囲-明示的なファンタジー性)」。ただしコストと明示的なファンタジー性は収穫逓減の法則に従うので、これらを非常に大きくすることは現実的ではない。また重み付けのパラメータも省略されている。おそらく、作戦範囲のわずかな拡大を補うために必要とされる明示的なファンタジー性の増大は、非常に大きなものになるだろう。
 この等式から、
・可能な限り作戦範囲を狭く設定すること
・もし作戦範囲を広く設定する必要があるなら大量のコストを投入すること
・明示的なファンタジー性をはりめぐらせて防御を固めること
 というアドバイスが引き出される。
 さらに言えば、続編などによる作戦範囲のエスカレーションが危険であることも示せるかもしれない。作品の長さの増大によってもたらされるコストの効果の増大は、収穫逓減の法則が強く働くために微々たるものになる。作戦範囲のちょっとした拡大に追いつくための追加的コストは途方もないものになりうる。

 中島梓先生の「新版小説道場」4巻206ページ、「ヤオイ、それは永遠の勘違いをなんとかしておしとおして世の中をかえてやろうとする壮絶なドン・キホーテである」。
 純ギャル作品がJUNE・ボーイズラブに集中しているのは、こうした確信がジャンル全体を貫いているからかもしれない。確信犯は深く確信せねばならないのだ。
 省みて、ギャ会はこのような確信を作り出すことに成功しているだろうか。どうも私の見るところ、うまくいっていないような気がする。

9月18日

 タブレットを使って、毎日円と直線を千回描く練習を始めた。
 真円などおこがましい目標だった、と言わざるをえない。真円などでは全然ない、ただ丸に見えるだけの丸を描くのがどれほど難しいことか。
 ともあれ、タブレットという画材は面白い。まず、ポインタが画面上を動くので、線の入る地点を隠せる。線の始まりを「払い」にできるわけだ。逆に、線の終わる地点をコントロールするのが難しい。位置検出精度があまりよくないので、カケアミなどをやるには向かない。ソフトの処理落ちがあってムカつく。筆圧を検知して線に効果をつけるので、かすれた線が簡単に綺麗に描ける。(「北へ。」の絵はタブレットではないかと見ているが、事実はどうなのだろう)
 円と直線がうまく描けるようになったら、次は「なぞり百回」の予定である。

9月17日

 いろいろ調べてみると、最近のドライバなら共有IRQでもたいてい動くらしい。
 最近のIRQ関係についてはすべてを把握しているとはとても言えないので、これは正確な知識ではないと思うが一応書いておく。いわゆる「IRQの共有」には二種類ある。「PCIステアリング用IRQホルダ」がPCIデバイスごとに一つずつ存在する場合と、複数のPCIデバイスに対して一つしか存在しない場合である。
 前者(これは「IRQの共有」というより「IRQの多重使用」だと思うが)はよほどのことがないかぎり正常に動作する。後者は、私の経験では、安定に動作したことがなかった(起動は成功する場合が多い)。が、今回はこれがほとんどのケースで正常に動作している。各種の情報を総合してみると、これはドライバが進歩したためらしいとわかった。なんにしろ助かる話だ。
 かくして、i810のオンボードビデオとYMF724が共有IRQ(後者の)で正常に動作している。これなら当初の予定どおりPCIカードを4枚使うことができそうだ。

 画面の広さと速度のダブルバインドに悩まされた末、3D Blaster Savage4 PCI版を買ってしまった。
 そんなに遅くなく、DVD再生アクセラレーションがあるPCIのビデオカードというと、これしかなかった。画質は悪くてもi810よりはマシだろうという読みだったが、密かに期待していたほどではない、つまり大差ない。が、UMAではないので高解像度でもパフォーマンスに響かない。というわけで現在、1280×1024×32bitで使っている。とりあえず1万円の価値はあるような気がする。
 さてこのカード、かなり電力を食うらしく、通風の悪いところで使っているとかなりの温度になる。多少の通風があれば、2Dで使っているかぎりは周囲との温度差22℃程度で安定している(3Dはまだ試していない)。ドライバ自体にGPUのクロック設定機能がついているので、完全無音マシンを実現するときにはクロックダウンして使うことになるだろう…と思ったらGPUはデフォルトで下限(110MHz)に設定されていた。ヒートシンク交換!
 このクロック設定は、再起動することなしに再設定できる。SoftFSBと同じ――と思ったところで私の脳裏を強まったイメージが駆け抜けた。
 完全無音状態のときには一切の冷却ファンを止めておき、GPUやCPUのクロックもデフォルトに設定しておく。3Dゲームなどの高パフォーマンスが要求されるソフトを動かすときにだけ冷却ファンを起動、GPUとCPUのクロックを上げる。…そう、ニトロだよアニキ!
 普段は「10万キロ走る予定です」「環境にやさしいです」と言わんばかりの静かでおとなしげなマシンが、一瞬にして轟音をあげるオーバークロックのボアアップのスーパーチャージャーな明日なき環境破壊マシンに変身するのである。想像するだに痛快きわまりない。
 この構想、普段が完全無音でないと痛快さが4割引なのでまずは完全無音化なのだが、これがかなり遠い先のことなので、少しへこむ。うーむ。

9月16日

 CA810のバスマスタ関係は、MEWと同じだった。さらに、オンボードビデオを無効にすることができないので、PCIスロットのうち1本はよほどカードを選ばないと使えなさそうな気配である(バスマスタ物でも動かないわけではなさそうだが)。きゅう。
 が、4本のうち3本は思ったより柔軟に使える。完全にIRQを占有できるのは1本だけだが、共有IRQでもビデオカードが動く。詳細は後日。

 ヒートシンクの温度計のつけ方を変えてみたら75℃をマークしたので、ファンをつけた。やはり8cm角×高さ4cmのヒートシンクではファンなしで動かすのは無理らしい。うーむ。

9月15日

 新システムを導入した。
 最初はECSのSlot/Socket両方つきのマザーボードの予定だったが、店員に訊いてみてもバスマスタ関係のことがはっきりしない。MEWと同じでした、では困る。
 アキバをさまよい歩くうち、IntelのCA810という板が目に入った。CPUにつながるチップ(略号失念)が45°傾いてついている、あの板である。「おーさすがはリファレンス物、美人じゃのー」と思ってよく見ると、CPUのまわりに、2200μFのケミコンが7つほどもついていた。Slot1の高級ボードなみである。
 とたんに喉からにゅっと手が出て板をつかんでごくりと飲み込み、何事もなかったかのように立ち去ろうとしたら盗難警報が鳴って大騒ぎ、というのは嘘だが、とにかく手に入れた。PCIスロットが4つしかないのと、Coppermineが動かないかもしれないのには目をつぶった。
 だってケミコンがハンパじゃなくデカいんだよアニキ! ヘボい電源系じゃあWindows2000動かしたときノイズが電源に乗っちまって不安定になるじゃねえか! などと自己正当化してみるものの、冷静になって考えてみると、顔に騙されただけという気がする。45°チップ恐るべし。

 ちなみにCPUはCeleron300A、メモリは64MB(CL2)、ケースは5500円(税込)。さらにタブレットも買ったのだが、これはまだインストールしていない。明日から真円千回に励む予定である。
 ヘボくてボケてると評判のi810のオンボードビデオの画質は、評判どおりヘボくてボケている。1024×768より上では使用に耐えない。Milleniumを使いたいところだが、速度は圧倒的にオンボードビデオのほうが上だ。ゲームの速度と画面の広さと、どちらを優先させるべきか考えた末、オンボードビデオで1024×768で使っている。おかげでこれを書いている画面は狭い。しかもこれでもまだボケている。うう。
 なにはともあれ、長年の悲願だったISAバス追放がこれでついに完成したわけで、まことにめでたい。デバイスマネージャのシステムデバイスを眺めて悦に入る私である(しかし「ISAプラグアンドプレイエミュレータ用I/Oデータ読み取りポート」はなんなのだろう。なんのリソースも割り当てられていないようなので無視しているが)。
 PCIスロットが4つしかなく、しかもうち一つはオンボードビデオと排他的らしいので、必然的にビデオカード・SCSIカード・サウンドカード・ATI Video Wonder(未発売・入手予定)の4枚で埋まってしまい、増設の余地がない。サウンドカードの2枚刺しなどを企てていたのだが、不可能になってしまった。USBを活用せねば。
 CPUは大型ヒートシンクのみのファンなしで使っている。ヒートシンク脇の温度計は低負荷状態では周囲との温度差35℃を示す。高負荷状態での動作試験をこれから行う予定である。

9月14日

 実の姉妹(除く双子)で百合なものを探す今日このごろ、ようやく百合テイストを一つ発見した。介錯の「三銃士事件帖」の2巻、主人公とその姉である。
 222ページ右下のコマにはしびれた。この作品についてはどうかと思う点も多々あるが(なぜに男性誌で宝塚男役キャラを鑑賞せねばならんのかね?)、このコマだけですべて許す。

 本屋に行ったら、リデル・ハートの「第二次世界大戦」なる本が出ていた。
 リデル・ハートっていったら「英国の防衛」でしょ、アルデンヌ森林地帯の突破は無理なんでしょ、ヒトラー&グデーリアンの引き立て役でしょ、などと意地悪くボケてみる。ともあれ、軍人出身の軍事評論家は軒並み軍の御用学者なので、眉につばをつけたほうがいい。

9月13日

 もうすぐ新システムを導入する予定なので、i810のマザーボードについて調べている。
 例によって、バスマスタ可能なPCIスロットについての情報がまるでない。ASUSのMEWがとんでもない仕様になっているのを発見しただけだ。MEWだけほかのi810マザーボードより値段が高いと思ったら、地雷物件だったとは知らなかった。地雷物件廃絶のため、これからASUSの製品はすべて避けることにしたい。

 最近話題の「買ってはいけない」は、パソコン業界でやれば面白いだろうに。なにしろ地雷物件にだけは事欠かない業界だ。
 こういう業界に踏み込まず、安全地帯で決まり文句を繰り返す連中の製品批判など、耳を傾けるに値しない。彼らは、この世界にとって好ましいことは何一つできない連中だ。

9月12日

 超ハ級長篇百合小説は現在333枚。現時点でたしか私の最長記録だったような気が。
 残り枚数は、50枚、ということにしておく。うむ。

 ふと気まぐれにIE5のバージョン情報を見たら、IE5はMosaicがベースであるという旨の文章が出てきた。以前のバージョン情報にはこうした文章はなかった。おそらくSpyglassの起こした訴訟のためだろう。
 ネスケがMozillaという愛称(?)を持っていることは有名だと思う。この語はMosaicとGodzilla(ゴジラ)の合成で、Mosaicを食ってやるという意味をこめているらしい。が、結果はかくのごとしだ。それを見せつけるかのようなバージョン情報の文章。MSとしてはSpyglassに噛み付かれたから入れただけで、そんなつもりはないのだろうが。

9月11日

 今日の結論:
 新月お茶の会の○○○○○○○○・○○○氏の弱点は○○○○・○○○○○・○○○(作戦上の機密保持のため検閲済み)
 純ギャル作品は小説・まんがでは女性向け(ボーイズラブ)ばかり

 今日の推測:
 男性向け純ギャル小説・まんがが稀なのは、「恥ずかしさ」のため?
 女性読者が男性向けギャル作品を読むとき一番ひっかかるのは、「オトコノコの欲望」が表に現れるとき? よって男性キャラの出てこない百合は、女性読者対策として最強?

9月10日

 読書の秋、古典に親しもう、ということで、ごとうしのぶの「そして春風にささやいて」を読み始めた。
 高林泉の地位および14~16ページの展開は、百合における絵のモデル→裸よりも現実にありそうにない黄金パターンだが、これを発明して世に広めた人は天才だと思う。こんな地位と展開、普通の頭では思いつけない。

 アキバに行ってみたところ、KNI対応版のi810-DC100が出回っていた。
 あと、例によって128MBのSDRAMが高騰している。256MB(128Mbit×16)を買えという天のお告げだと思うので、個人的にはどうでもいい。

9月9日

 今日が2000年問題の前哨戦だという都市伝説があったらしい。1999年9月9日で、9が五つ並ぶから、だという。
 1999年で問題が起こるなら正月にすでに起こっているはずで、9月9日まで待たない。99月99日ならともかく、09月09日ではなにか起きてみようはずもない、というコラムがどこかに出ていた。まことにお説ごもっともである。

 99月99日で、ある怪談めいた笑い話を思い出した。
 夜明け前に目を覚ます。枕許のデジタル時計を見ると、3時33分だった。起きるには早すぎるので寝直す。しばらくして、また目を覚ます。時計は4時44分。寝直す。目を覚ます。5時55分。薄気味悪いと思いつつ寝直す。目を覚ます。
 この話は、「怖くて時計を見られなかった。だって、6時66分だったらどうするの?」で終わる。「本当にあった」と名乗る怪談は、少なくとも、体験した人が生きて戻ってこなければならないわけで、6時66分を表示するデジタル時計を見てしまった人が戻ってこられるとは思いにくい。
 この話もそうだが、本当に面白い怪談のネタというのはどういうものか、笑い話にしかならない。あるものより怖いものは笑い話になり、それ以下の怖さしかないものは怪談になるのだろう。その「あるもの」とはもちろん、現実である。

9月8日

 全文検索で調べてみたところ、フランク・リチャーズのセント・ジムズ・シリーズは、ビリー・バンターというキャラで有名らしい。戦後に出た単行本のタイトルはすべて「ビリー・バンター」の名前を冠している。またイギリスでは現在でも名高いシリーズらしく、「セント・ジムズはクリスマスにはいつも雪が降っていた」などという豆知識まで覚えてしまった。
 このシリーズの人気を分析してみるに、まず週刊というのが大きい。おそらく月刊ではだめなのだ。月刊では切れてしまう流れが、週刊では切れない、そういうところが確かにある。この流れはそれ自体で力がある。
 セント・ジムズ・シリーズは、数回で一イベントという構成をとっている。一週をうっかり見逃すとしばらく話についていきにくくなるが(このおかげで「今週のセント・ジムズ・シリーズを読まなきゃ」という動機付けが生じる。一回読み切りなら、見逃してもどうということもない)、一ヶ月もすればまた新しいイベントが始まる。レギュラーメンバーの入れ替えは非常に少ないうえ、いつでもキャラの紹介をしつこくやるので、見知らぬ名前に「こいつ誰だ」と思いながらも話は進んでいく、というような事態はまず起こらない。このへんはシリーズ物の常道だが、毎回16ページのまんが週刊誌では、いつでもキャラの紹介をしつこくやるわけにはいかない。原稿用紙で100枚から150枚という長さがあって初めて可能になることだ。
 というわけで、セント・ジムズ・シリーズのテクニックをすべて使ったシリーズ連載は、今の日本には存在しない。可能性としても、毎週50ページのまんが原稿を生産できるまんが家は、さいとうたかをと柳沢きみおだけだろう。毎週100枚から150枚を書ける作家は、1988年の花井愛子か(ちょっと厳しいか?)、ミュージカルをやっていなかった頃の栗本薫先生か。
 有名でなくてもいいから原稿の早い作家を1年契約で専属にして、ミニ文庫を週刊で出す、というような実験をどこかでやってくれないものだろうか。セント・ジムズ・シリーズの翻訳でもいい(きっと、まとめて単行本で読んだら、どうしようもなく退屈な話だろう)。週刊の小説というものを、ぜひこの目で見、体験してみたい。

9月7日

 実はまだ「With You」をやっている。
 技術的にはともかく、世界観的にきわめてアレなので、連続して5分以上やると眩暈がしてくる。やはり長岡志保は不世出の二番打者だと再確認させられた。もっとも私の小説も、連続して5行以上読むと眩暈がしてくる人は少なからずいると思うので、あまり人のことは言えないが。

 ジョージ・オーウェルの評論集、「ライオンと一角獣」(平凡社)に収録されている「少年週刊誌」というエッセイは、今から半世紀前のイギリスの少年向け週刊誌のことを書いている。
 このエッセイのなかに出てくる、パブリック・スクール物の読み切りシリーズ(ご当地でもやはりパブリック・スクールは人気のあるネタなのだ)の話が興味深い。話題になったシリーズは二つ、グレイフライアズ・シリーズとセント・ジムズ・シリーズである。(やはりご当地でもパブリック・スクールといえば「セント・~」らしい)
 このシリーズは二つとも、30年以上にわたって連載されており、このエッセイが書かれた当時、まだ続いていた。週刊誌の連載なので週に一本書かれ、一回の長さは1万5千語から2万語だという。
 1万5千語から2万語。私の経験では、語数×3がたいだい日本語の字数(原稿用紙換算)になる。原稿用紙で100枚から150枚。これが、週刊である。この二つのシリーズが始まったのは第1次大戦前、ワープロどころか電動式タイプライターもなかった時代だ。
 『しかし三十年続いている連載ものが、毎週同じ著者によって書かれていることはほとんどありえないだろう』とオーウェルは書いている。30年、毎週、100枚から150枚。同じ著者と思えというほうが無理だ。
 が、この文章の横に原注がついており、こう書いてある――
 『これは全然間違っていた。これら二つの物語は全巻を通じて、それぞれ「フランク・リチャーズ」と「マーティン・クリフォード」によって書かれ、しかもこの二人は同一人物だった!』。私の計算によればこの『全巻』とは、両シリーズそれぞれ400巻弱である。
 たった一人で「ペリー・ローダン」に対抗できる怪物が、この世に存在したのだ。

 30年以上続いたということでもわかるように、この二つのシリーズは大変に人気があった。大英帝国の版図すべてにいたという読者の発する質問は、現代日本の読者のするそれとまったく変わらない。
 『「ディック・ロイランスは何歳ですか?」「セント・ジムズ校は創立以来何年ですか?」「五年生の名簿と学課目を教えていただけませんか?」「ダーシーの単眼鏡の値段はどのくらいですか?」「クルックみたいな奴が上級にいて、あなたのように立派な人が四年級にいるのはどうしてですか?」「級長の三つの主任務とはどんなことですか?」「セント・ジムズ校の化学の先生はだれですか?」「セント・ジムズ校はどこにありますか? 道順を教えてください。建物が見たいのです。あなたがた少年たちは、私が想像するように、本当に架空の人物たちたのですか?」(少女からの手紙)』。
 「フランク・リチャーズ」と「マーティン・クリフォード」について私が知っていることは、このエッセイに書いてあることだけだが、彼は幸福な30年間を過ごしたと私は断言する。

9月6日

 中島梓先生が「新版小説道場」4巻、「新・やおいゲリラ宣言」で書いている「JUNE=階級闘争」論は、敷衍するとなかなか楽しい。
 藤本由香里は「私の居場所はどこにあるの?」(学陽書房)22ページで、古い少女まんがの恋愛についてこう書いている。『いつも最終的に恋に勝利するのは、手練手管にたけ、さばけたセリフをはける大人の女よりも、ストレートに思いをぶつける、ひたむきな主人公だというパターン』。『ストレート』=弱者、『手練手管』=強者と見立てればこれは、「階級闘争の結果、弱者が強者に勝つ」というパターンとみなせる。
 ただし、少年まんがの戦いは力を直接に競う文字どおりの戦いであり、JUNEの戦いは性愛も腕力も総動員しての権力闘争であり、どちらも「戦いに勝つために、今の自分にはない力を得る」というプロセスを持つ。『ストレートに思いをぶつける、ひたむきな主人公』がそのままの自分で勝てるのとは大きな違いである。
 …といっても、いまどき乙女チックイデオロギーをそこまで忠実になぞった作品があったら、「今月の『××』どうよ?」「どうかと思うよ」ということになるだろうが。

9月5日

 OKAMAの「スクール」についてギャ会会員の意見を集めたところ、「ギャルまんがや美少女系エロまんがの文体を外しているから辛い」というところでまとまった。
 ギャル理論研究において、文体と辛さの関係が指摘されたのは、私の知るかぎりではこれが初めてだ。拒否反応の抑制はギャル理論の重要なテーマであり、興味深い。

9月4日

 今日の結論:
 ドラえもん→マルチ→ウラ社会
 (映画のウテナの)絵のモデル→裸は百合の黄金パターン
 フジミは第1部でやめとけ
 男性のJUNE・ボーイズラブ読者は、特に趣味が悪いとはいえない
 少コミはギャル的に重要

 今日の推測:
 小説b-BOYはボーイズラブ界のペンギンクラブ山賊版?(趣味の良し悪しという点で)
 女性の美少女系エロまんが読者が一般的にいって趣味が悪い(ような気がする)のは、感情移入システムの問題ではなく、母集団(女性の美少女系エロまんが読者全体)の傾向から?
 白泉社→ボーイズラブ→ウラ社会?

 今日の豆知識:
 吉原理恵子は「よしはらりえこ」と読む。「よしわら~」ではない
 猫島礼は「ねこしまれい」と読む。「島」は濁らず「しま」である

9月3日

 超ハ級長篇百合小説はいよいよ目標のマルチ越えにさしかかりつつある。
 広くフィクション一般を見る視点からギャル作品一般を見ると、「真に意表を突く展開がめったにない」という指摘ができる。この傾向はギャル理論的には「真に意表を突く展開はギャル的なコストパフォーマンスが悪いため」ということで説明される。
 今回私は、コストパフォーマンスの悪さを承知の上で、真に意表を突く展開を採用した。もちろんマルチを越えるためだ。パワーとコストパフォーマンスの両方でマルチを越えることはどう考えても不可能なので、コストパフォーマンスを度外視したのである。
 これはソンムの戦いになるのか、それとも旅順攻略戦になるのか。結果は遠からず出るはずである。

9月2日

 中島梓先生の「新版小説道場」4巻、「新・やおいゲリラ宣言」を再読した。
 「明朗学園JUNE」を批判しての問い、『だったらどうして、「男どうし」でなくちゃいけないの?』に、ギャル理論は答えを与えることができる。「第二層の自己同一化だから」だ。第一層で必要な、主人公の行動への肯定が、「男どうし」にすることで不要になる。
 が、これが進歩なのかというと、どうにも心もとない。もっとも私は進歩など求めていないので、どうでもいいといえばどうでもいいことではあるが。

9月1日

 一時期のmp3ばらまきブームはそろそろ下火になったのだろうか。
 インターネット上での著作権侵害といえば、ずっと心配していることが一つある。本のばらまきだ。
 本のページを取り込み、OCRでテキスト化すれば、よほど厚い本でも1MBにもならない。OCRは完璧ではないとはいえ、どうせタダなのでご愛嬌ですむ。ベストセラーを片っ端からばらまく輩がいてもおかしくなさそうだ。
 1ページずつ取り込むのが面倒なのでmp3よりは敷居が高いが、最近のデジカメは強力な武器になる。200万画素といえばOCRにかけるには十分な解像度だ。デジカメは高解像度化だけでなく高速化も進んでいるらしいので、1ページ1秒程度のペースで取り込むことも不可能ではないだろう(たとえ今日の時点では不可能でも、来年には必ず可能になる)。300ページの本を5分で取り込み、15分でテキスト化すれば、1時間で3冊。これなら一人でもベストセラー全部をカバーできる。
 というわけで、私は長いことこのような事態を恐れてきたのだが、どういうわけか、本のばらまきの噂はいっこうに聞こえてこない。不思議だ。

 

今月の標語:

「猫が寝転ぶ」


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