ローレンス・レッシグの「CODE ―インターネットの合法・違法・プライバシー―」を読んだ。
強引にまとめれば、「情報世界のアーキテクチャは政治的な価値判断にかかわる問題であり、自由放任はあまりいい結果を生まない」というくらいか。
しかしこの本の見どころはそこではない。見るべきは、あちこちにちりばめられたソ連ネタだ。「ソ連」という言葉も頻繁に出てくるし、「審議する」世論調査(417ページ)というアイディアは党の細胞会議を思い出させる。ソ連マニアなら誰しも「百日実施計画」という言葉ににやりとするはずだ(シャターリンの百日計画)。「やめる権利はあるのだけれど、それはソ連市民が国外移住の権利があったのと同じ意味でしかない」などと誰もわからないソ連ネタで喩えるのは私だけではなかった。
ただし、ソ連ネタ満載だからといって、本書の説に疑問を感じないわけではない。
たとえば、本書にも引き合いに出されているJ. S. ミルが、自由の敵のうち最大のものと名指ししたのはなんだったか? 習慣である。「情報世界ではコードがアーキテクチャを規定する」という説は、十分に真実ではない。コードは書き直せる、それも、一度目よりずっと簡単に書ける。習慣という要素を抜きにしては、コードが人々の暮らしを規定する力は、ほとんど取るに足らない。習慣という要素を導入すると、本書の議論がずいぶん怪しくなる。