2004年06月04日

私に似た人

 またもやサラ・ウォーターズ『荊の城』について。
 私はいままで、生まれ育った環境というものを過大評価していたらしい。百合は人類の明るい未来ではあるが、それを垣間見るには、日本のオタク文化のような進んだ環境が必要だと思っていた。「もし私が他の人よりも遠くを見ているとしたら、それは巨人の肩の上に立っているからだ」とニュートンは言った。
 が――サラ・ウォーターズは(おそらくは)日本のオタク文化の助けなしに、私と同じ視点を獲得した。
 この「私と同じ視点」の「同じ」の意味は、およそ想像しうるかぎり厳密なものだ。アリストテレス『詩学』の言葉を借りれば、ウォーターズと私の考えるエイコス(ありそうなこと)とアナンカイオン(必然的なこと)は完全に一致している。
 説明しよう。水戸黄門では、葵の御紋の印籠を見た悪党は、戦意をなくすと決まっている。やおいでは、攻に強姦された受は、そのうち攻を愛するようになると決まっている。どちらも、現実にはとても必然とはいえないが、それぞれの物語宇宙では必然、すなわちアナンカイオンである。
 『詩学』の現存するテキストの上では、エイコスとアナンカイオンは所与で自明のものであるかのように扱われている。しかしこれらはけっして所与でも自明でもなく、多くの才能の試行錯誤によって創造され、優れた作品によって伝達されるものだ。
 百合には百合のエイコスとアナンカイオンがある。いまのところ、これを理解している作家はそれほど多くないが、ある重要な範囲には共有されており、また、その範囲は広がりつつある。
 その共有の範囲は、作品による伝達の及ぶ範囲に等しいと、いままで思っていた。百合の登場と繁栄それ自体は、たしかに歴史の必然ではあるが、その細部には多くの偶発的要素が含まれているはずだと。
 サラ・ウォーターズは私のこのような考えを、根底から揺るがせた。伝達なしに同じものが共有されるのだとしたら、百合には偶発的な要素はごくわずかしか含まれないのではないか? 百合の多くの部分が、人間性そのものから必然的に導き出されるのではないか?
 これは歴史的事件かもしれない。賢明なる読者諸氏がこの事件を見逃すとしたら、あまりにも惜しい。だから結局、私が言いたいことはただひとつ、いますぐにこの本を読め、ということだけだ。

Posted by hajime at 2004年06月04日 01:43
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