2004年09月21日

資本と労働

 『洒落本大成』29巻を読んでいる。洒落本を集めた全集で、29巻には天保以降のものが収められている。
 「傾城秘書」が面白い。人気女郎の口を借りて、「私が惚れさすのはお客を私に惚れさすのではございません、お客をお客に惚れさせ自身をおのれに惚れさすゆえに、そこで私と深くなります」という心得を女郎に説く本である。
 が、面白いのは、心得の内容そのものよりも、この心得を語る口調から透けて見える回転率至上主義だ。
 女郎にとって回転率は、客筋ほど重要なファクターではない。けちで嫌な客は、労多くして実り少ない。必要な程度の回転率が確保できているなら、こういう仕事は蹴って、もっとましな客が来る可能性に賭けつつ体を休めるほうがいい。「もっとましな客」のなかには、身請けしてくれる客が含まれていると思えばなおさらだ。
 が、「傾城秘書」で心得を説く女郎は、正月から大晦日まで一日もお茶挽く間もなく繁盛している、と書かれている。さらに、ケーススタディの終わりはすべて「足ちかしちかし」となっている。
 どう考えても、「こんなに回転率が上がりました」という話よりも、「こんなに客筋がよくなりました」「これで私は身請けされました」という話のほうが女郎をひきつけるはずだ。
 「傾城秘書」の価値観は、女郎のものではなく楼主のものではないか。巻末の「女郎衆敬(つつしみ)の事」で長々と心中を戒めているのを見ても、楼主の論理を強く感じる。
 女郎の読み物が、楼主の論理で書かれているという矛盾。
 この件に限らず、近世の出版文化には、女郎自身の価値観を反映した言葉がひどく少ないように思える。なにもアムネスティの肩を持つわけではないが、闇は沈黙を語るのだ。

Posted by hajime at 2004年09月21日 01:06
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