『洒落本大成』29巻「つづれの錦」について。
廓の客の心得を説く本である。「通はアホ」「おとなしくしていろ」「女郎は大変なのだから誠を求めるな」といった、ありきたりのことを書いている。「女郎に誠はない」→「それは廓のせい」→「女郎はかわいそう」という例のコンビネーションも当然出てくる。
「女郎に誠はない」という問題系は、明治維新のあと次第に失われ、「女郎は醜業」という問題系にとってかわられた。ここではコンビネーションは、「それは廓(=国家公認の管理売春)のせい」→「廓をなくせ」というパターンになる。このコンビネーションは戦後、芸娼妓契約無効判決および売春防止法として結実し、いま一部のマスコミでみられるような「明るい自由売春」のイメージへとつながっている。
「女郎は醜業」という問題系をどう評価するにせよ、「明るい売春」という結末は、発展的かつ進歩的である。では、「女郎に誠はない」という問題系はなにを生み出したか。
なにひとつ――「廓とはこういうところ、女郎とはこういうもの」という認識のほか、なにひとつ生み出さなかった。
近世はけっして凍りついた時代ではない。吉原は、誕生から幕末までのあいだずっと、大衆化しつづけていった。しかしその間を通じて、「女郎に誠はない」という問題系にはなんの発展も起こらなかった。
「女郎に誠はない」のような発展性のない問題系は、まだどこかにたくさん転がっているはずだ。そのような発展性のない問題系を覆すのは、問題系のなかで機能する反論ではなく、別の問題系だ。それは必ずしも、透徹した認識にもとづくものではないだろうが(廃娼運動家の認識の狭さには驚くばかりだ)、この世を前に進ませる。
百合もまた、この世を前に進ませる問題系であると、私は確信している。