資本主義国ではお伽噺は「むかしむかし~」で始まるが、共産主義国では「いつかきっと~」で始まるという。
もともとは単なる笑い話だが、よく考えてみると、ここには鋭い洞察が含まれているように思える(たいていのことは、よく考えてみれば、鋭い洞察を見出せるものだが)。
お伽噺を批判的にしか受け取れない人は、そもそもお伽噺に縁がない。また、いわゆる「設定マニア」的な発想とも相容れない。お伽噺の世界は、事物の論理ではなく、意思の論理で動いている。
いま「設定マニア」と言ったが、マルクスは設定マニアの轍を踏むのを注意深く避けた。設定マニア、すなわち空想社会主義だ。「構想を詳しく仕上げれば仕上げるほど、それはますます空想となっていった」(エンゲルス『空想から科学へ』)。設定マニア的であることを拒むなら、共産主義者が語る未来はお伽噺でなければならない。
むしろ問題は、「むかしむかし~」のほうにある。
なぜ「むかしむかし~」なのか。共産主義者のように、予言としてお伽噺を語ることができないのは、なぜか。言い換えれば――ファンタジーが受けてSFが受けないのは、なぜなのか。
ここにはおそらく、人間の本性にもとづくなにかがある。