2004年12月19日

TVアニメ『神無月の巫女』最終回

 TV棋戦の終盤で、次の一手で詰めろ逃れの詰めろが決まる、と思って観戦していたら、お互い明後日の方向に着手してガッタンコに、という感じの展開だった。
 「伝承の読み違え」というセリフはいったいどこに行ったのか? 前回のラストで、貝殻の首飾りを目にした千歌音が一瞬動揺したのは、千歌音の計画の破綻を示すものではなかったのか? 千歌音が自分の身代わりになって死んだことにぶち切れた姫子が、アメノムラクモ対オロチという構造自体をひっくり返そうとする(=神に挑む)はずではなかったのか?
 輪廻の扱いも疑問がある。釈迦は「輪廻、カッコ悪い」と喝破した。輪廻を扱うなら、それを断ち切るのが本筋だ。釈迦の説に反対して、輪廻を積極的に捉えなおす、という手もないではない。しかし本作品での扱いは、釈迦が「カッコ悪い」と言った輪廻そのものだ。
 千歌音のようなキャラは悪形だと前にも述べたが、悪形の害がもろに出た格好になった。いまは21世紀である。自己犠牲や悲しい運命に陶酔していればよかった戦前少女小説ではない。
 ちなみに私の読みは、過去生の姫子と千歌音が輪廻による再会を望んだためにアメノムラクモ対オロチという構造が作り出された、というものだった。

Posted by hajime at 2004年12月19日 06:29
Comments

 こんにちは。ソ連ネタが面白かったのでブックマークをしておりました。神無月の巫女を見てはたと思い当たり、久しぶりに訪問してみるとやはり鋭いコメントがあり嬉しくなりました。
 私も8話をみてこれはちょっと他のアニメとは違うかもしれないと、脚本チームはなんかやらかしてくれそうだという雰囲気を感じました。最終話は役者の見せ方は美しいけれど話はがっかりでした。展開は前に予想されたとおりになりましたので慧眼に恐れ入る次第です。
 百合を信奉される向きには身も蓋もないことではあるのですが、お互いが年寄りになっても百合を続けるのは見ているほうにとって悪夢でしかありません。だから姫子と千歌音が結ばれる線は避けて欲しかったという願望がありました。若いうちに百合を謳歌するのはいいけれど、卒業はしてくれと。
 百合の本筋からは外れますが、この物語は敵方でありながら”最初から”叛旗を翻して姫子側にくっついたソウマという設定にも驚かされました。初回が私にとって退屈な展開であったにもかかわらず見つづけられたのはこのためでもあったのです。
 幼少のころの姫子とソウマのエピソードを紹介していること、どうやら前世でのつながりはあるにせよ姫子と千歌音は知り合って日が浅いことから、姫子とソウマがくっつき、千歌音には別のものが与えられるんじゃないか、もしくは救済されないという予想をしていたのですが、(つまり百合は若いころの甘い思い出というわけです)これは外れてしまいました。
 

Posted by: cor at 2004年12月20日 07:39

 昔、謎の三段論法がありました。

大前提:過ちが美しいのは若いうちだけ
小前提:女性同性愛は過ちである
結論:女性同性愛が美しいのは若いうちだけ

 近頃はめっきり目にしなくなりましたが、20年ほど前には勢力を振るっていたようです。
 この三段論法が滅びた主な理由は、性的マイノリティ擁護の立場から、小前提に対して攻撃が加えられたためです。しかし百合には、性的マイノリティを擁護する義理はありませんので、この小前提を否定する理由もありません。
 (かといって肯定する理由もありません。私の趣味でいえば、この小前提は支持しかねますが、よい作品ならそれはそれで納得します)
 百合的な観点からは、否定すべきは大前提です。
 この大前提が成立するのは、かなり狭い範囲だけです。具体的には、団塊の世代とその周辺くらいのものです。
 演歌は、中年の過ちを感傷的に歌い上げます。シェイクスピアの『リア王』は、老人の過ちを力強く描きます。過ちが美しいかどうかは、読者の慣れと、作者の腕の問題です。
 というわけで、「若いうちに百合を謳歌するのはいいけれど、卒業はしてくれ」という見解は、視野が狭いといわざるをえません。
 百合とは広大な可能性です。たかが一世代の風潮ごときに縛られるものではありません。

 また、私の予想の要は、「千歌音の自己犠牲が救済によって否定される」という点にあったので、私の予想は外れました。千歌音の自己犠牲は有効に活用されたままで終わっています。

Posted by: 中里一 at 2004年12月20日 18:49

主観的な話が有効かどうかという問題はありますが。
自分的にはそもそも大前提や小前提を否定も肯定もしないという無責任な立場をとっています。大前提においても(若かろうとそうでなかろうと)美しい過ちというのはありうるでしょう。小前提を是とするとそもそも百合は成り立たないですし。いや、過ちとされているから背徳感が味わえるのかもしれませんが。
 ただ若い百合でないと実際問題綺麗な絵にはならないような気がします。そういう感性を視野が狭いと言われればそうかと思うしかありません。慣れはともかくとして、中年や老人の百合で美しいものがあるのならうわさ程度でも耳にしたいような気はします。聞いて実際に触れるかどうかは別問題ではありますが。歴史上存在した女帝や卑弥呼のような人物が実は百合で…といった題材は探せばありますから作者の腕の見せ所といわれればそうだとは思います。
 文学にせよ芸術にせよ優れた作品というものはすべからく美しくあらねばならないというものでもないでしょう。百合に限らず広大な可能性にいつも胸を躍らせていたいものです。

Posted by: cor at 2004年12月20日 23:40