2005年10月17日

岡崎裕信『滅びのマヤウェル』(集英社)

 復習しよう。
 萌え作品においては、女性キャラの存在密度が重大な関心事となる。男主人公が占めるスペースは無駄だ。市場になんの規制もなければ、萌え作品は百合になるほかない。
 だが、この結論は、一足飛びに実現されるわけではない。百合を大量生産するための人材と技術と市場(=下部構造)は、ある日忽然と現れたりはしない。人間の頭(=上部構造)も、そう簡単には変わらない。
 このため過渡期には、折衷的な作品が現れる。たとえば、女のふりをした主人公だ。ここから一歩進むと、男のふりをした主人公になる。本書『滅びのマヤウェル』がそれだ。
 このパターンは、ありがちなようでいて、類例が思い出せない。
・男と誤認されたことが恋のきっかけになる
・男装はしているが、社会的には女として認識されている
 この2つのパターンはいくらでもある。が、どちらの場合でも、普通の女が主人公で、男装や誤認される側は相手役というケースばかりだ。男装や誤認される側が主人公になること自体が、実はかなり珍しい。『少女革命ウテナ』とその影響を受けた作品以外に、これといった例を思いつかない。
 さらに、
・社会的には男として認識されているが、性自認は女である
 このパターンは『リボンの騎士』が有名だ。『リボンの騎士』は、主人公が女とわかると恋が終わってしまうという理不尽な展開で悪名高いが、類似作品はみなこの轍を踏んだらしい。性自認と恋愛対象が別だとわからなかった原始時代には、こういう愚行が繰り返されていたわけだ。
 かくいう私も、この日記を書くまでは、これが過去の愚行に終止符を打つ作品だとは気づかなかった。
 過去の愚行を避けるのは易しい。人はみなそうしている。しかし、愚行を正しい行いへと修正するのは難しい。本書はそれをやった。

Posted by hajime at 2005年10月17日 03:16
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