敬語について。
ハウツー本に書いてあるようなケアレスミスはさておき、敬語の「らしさ」は、語彙で決まる。10年に一度しか使わない言葉を、いくつ知っているか。つまり記憶力だ。私にまったくない種類の力である。
世の中には、記憶力に感心する人も多いらしい。
西條八十は高尚な詩も数多く残している。「淡粧」「文殻」「縹」といった単語が、続々と出てくるようなシロモノだ。当時は女学生などに人気があったらしい。吉屋信子の少女小説もそういう芸風だ。
私はこういう芸風がまったくわからない。「Lispのすべてはcar・cdr・cons・quote・eq・cond・defunだけで構成できる」という世界のほうが、はるかによくわかる。
*
「ひかるちゃーん、見ちゃったよー?」
その不安は、この瞬間まで、薄らぐことはあっても消えることはなかったかもしれない。
ドアの後ろから、陛下のお顔がのぞいていた。私はただぼんやりと、その光景を見ていた。
「恐れながら申し上げます、これは――」
これは――
陛下のぬくもりと残り香を楽しんでいただけで、陛下を害するようなものでは決してございません――
心臓が、がたがたとわめきはじめて、口が回らなくなる。
「これは?」
陛下は私のそばにお座りになり、あの表情豊かな目を輝かせながら、私を見つめておられた。
「その――なんと申し上げてよいものやら――その――」
自分の声も、陛下のお声も、心臓のわめき声にかき消されそうになっていた。陛下のお言葉を聞き逃すまいと、必死で耳をそばだてる。
「ひかるちゃん、真っ青」
陛下はお手をさしのべられ、てのひらを私の左胸にあてがわれた。ご自身の左胸にも同じようになさって、
「すごーい、ひかるちゃんの心臓、どきどきしてる」
きっと昔の貴婦人なら、こんなとき、都合よく失神してしまえるのだろう。意識が絶えないのが不思議なほどだった。
「お優しいお心遣いに――その――言葉もございません」
「ひかるちゃん、さっき、なにしてたの?」
それを聞いた心臓が、一拍遅れて、大声でわめく。
「あ、いま、すごい、どくんってした。おもしろーい」
そのあとは陛下はなにもおっしゃらず、ただ私の胸に手を当てながら、じっと私の様子をご覧になっておられた。
やがて心臓がいくらか落ち着いて、なんとか私は口を開くことができた。
「とんだ醜態をお目にかけましたことを、お許しください」
「ひかるちゃん、なんか悪いことしたっけ? 私すごく楽しいよ?」
「さきほどのご下問の件、つまり、私がなにをしていたのかを、申し上げます。お耳汚しとは重々存じておりますが、陛下の寛大なお心におすがりします。
私は、このお召し物に残っておりました、陛下のぬくもりと残り香を、楽しんでおりました」
「楽しかった?」
私はしばらく考えて、
「……よく、わかりません」
「『楽しんでおりました』って言ったばっかりじゃん」
「嘘でございました。どう申し上げたものか、わからなかったので、ついそのように口から出てしまいました。この痴れ者をどうかお許しください」
「楽しいんじゃなかったら、どうしてそんなことしてたの?」
「……わかりません」
「自分でも、わけのわかんないこと、してたんだ?」
「はい」
本当に、そのとおりだった。私はただ事実として、あんなことをしていた。
わけがわからないからといって、『まるで誰かに操られていたかのよう』、とも思わない。私は確かに、あんなことをする人間だ。
「ひかるちゃんて、ずっと前から、こういうことしてるよね?」
ずっと前――初めてがいつだったか、思い出せない。少なくとも一年は過ぎている。
「はい」
「やっぱり、ねー。
こんなことしちゃいけない、とか思わなかった?」
「思いました」
「どうしてそう思ったの?」
「こんなことをするのは、気味が悪い、と思いましたので」
私は言葉を選んで、『気味が悪い』、と言った。けれど陛下は、
「うん。すごーく、気持ち悪いよ?」
と、容赦のない言葉に置き換えておっしゃった。私は耐えかねて、つい、
「恐れながら陛下にお願い申し上げます。どうか私を、護衛官の役目から解いてくださいますよう。私はこの役目にふさわしくありません」
口にした端から、悔やんだ。最終面接を終えたときから、こんなことは絶対に言うまいと決めていた。陛下を置き去りにはしないと。なのに。
「ふさわしいかどうかは、私が決めるの。ひかるちゃんは、やめたい?」
もう同じ過ちは繰り返さない。
「いいえ、陛下にお仕えしとうございます」
「それでまた、私の服の匂いをかぐんだよね?」
さすがにそろそろ、陛下のお考えが、薄々ながら伝わってきた。陛下には、人並みに嗜虐的なところがおありになる。けれど、わかっていても、心の動揺は抑えられるものではない。陛下のお言葉に、私の体は震えた。
「もう二度といたしません。どうかお許しください」
「二度としない、っていうことは、原因がもうわかってて、対策もできた、ってことだよね?
でもさっき、自分でもわけがわかんない、って言ってなかった?」
陛下のお尋ねになったことは、口先の理屈のようでも、私の実感を突いていた。
やめられるのだろうか。いままでも、すべきでないとはわかっていたのに、たいした葛藤も覚えずにしてきた。まるでおかしな夢をみているようだった。
「……私の思慮が足りないばかりに、無責任な約束を申し上げてしまいました。お許しください」
「覚えてる? 『無理しないで、辛いことがあったら言って』――って、私さっき言ったよね?
いま、ひかるちゃん、すごく無理してるみたいに見える。
辛いんでしょ? 言って?」
「はい――お願い申し上げます。
私ひとりでは、自分を抑える自信がございません。私が同じ過ちを繰り返さずに済むよう、陛下がお脱ぎになったお召し物などは、私の手に届かないよう――」
「そうじゃないでしょ!」
陛下は一喝なさった。
「それって、やっぱり隠してるだけじゃない。
ひかるちゃんは、私と一緒だから、ひかるちゃんなの。そうやってひとりで黙って隠してる人なんて、ひかるちゃんじゃない」
そして、奇妙に一瞬、なにか胸につかえたように言葉を途切らせてから、
「……ごめん。言いすぎた。ひかるちゃんにだって、内緒のことがあるよね」
「いいえ、陛下にそのように信じていただけるのですから、なにも隠すことなどございません」
私にはもう逃げ道はなかった。どうしても、言わなければならなかった。
「謹んでお願い申し上げます。
陛下のお召し物の、ぬくもりと残り香を楽しむことを、どうかお許しください」
陛下は、よくできました、とばかりに微笑まれた。
「いいよ。
ただし――」
陛下は小考なさってから、
「まず、ちゃんと楽しむこと。『自分でもわけがわからない』、じゃなくて。もし私が、『楽しい?』ってきいたら、『最高』とか『あんまり』とか、ちゃんと答えられるようにね。そしたら私も、ひかるちゃんがもっと楽しくなるようにしてあげられるから。
条件その2。私が見てないところでは、しない。私は、ひかるちゃんに、嗅いでほしいの。ひとりで隠してる人じゃなくて。
条件その3。したいときは、ちゃんと口でそう言って。おねだり、するの。
条件その4。もし、こっそりしちゃったときは、すぐに私に言うこと。そしたら、ちゃんと叱ってあげるから。
……わかった? 約束できる?」
「誓って、お申しつけのままにいたします」
陛下は微笑まれ、私の手をお取りになった。
「ありがとう、えらいよ、ひかるちゃん。
それじゃ、いまから――してみて」
そうおっしゃった陛下の、私をご覧になる視線が、いつもと少し違う。
いつもよりお顔を後ろにそらされ、まぶたが下がっておられる。陛下は、いつもやや上目づかいで私をご覧になっていたのだと、そのとき気づいた。
陛下のお手の温度が、下がった。毛細血管が収縮して、皮膚への血流が減少したためだ。つまり、陛下は、緊張なさっているということ。
そう思うと急に、頭がはっきりしてきた。陛下のお気持ちとお考えだけでなく、さまざまなものが見えてきた。今日のスケジュールのことまでも。
陛下を抱きしめたい、と感じた。
胸で感じた。指先で感じた。頭で感じた。鼻で、目で、耳で、感じた。
抱きしめて、それからどうするという考えもなく。わけもわからず。
衝動を覚えるだけでなく、頭も回っていた。だから考える――私には考えがなくても、陛下はお考えをお持ちだろう。もしそれが実現してしまったら、ここを出るべき時間に間に合わなくなる。
それに、もし私が陛下とそのような関係に陥って、そのことが公になれば、政治問題になる。私は公邸のメイドではなく、護衛官なのだ。
いまの段階ならまだ、私が異常者で、陛下はそれを広いお心で受け止めてくださった、という形で済む。もし事が外に漏れても、病的な印象が強いので、公に口にするのは憚られるだろう。程度の問題ではあるが、政治問題はすべて程度の問題だ。
雑念はいくらでも湧いてきた。私はそれをすべて、ため息といっしょに吐き出した。
陛下のご緊張をやわらげ、嗜虐的なお気持ちを満たしてさしあげたい――その目標に集中する。
「陛下、どうかお召し物を――ぬくもりと残り香を、賜りたく」
「うん。ブラでいい?」
私の返事を待たず、陛下はお脱ぎになられた。陛下は下着に趣味をお持ちで、今日も華やかなものを召されていた。
陛下のお身体は、特に胸は、とても女らしくあらせられる。下着に遮られないお身体は、目に生々しく、私はよそを向いた。
「そうだ、してるときは、『陸子さま』って呼んで」
「かしこまりました、……陸子さま」
よそを見ていた私の手に、温かい布が触れた。
「はい、どうぞ?」
「ありがたく頂戴いたします」
お召し物を、胸の前にくるように持つ。顔をやや下に向ける。立ち昇るぬくもりと匂いが、顔にかかるようにするため。
陛下は、首を伸ばされて、私の顔を下からご覧になりながら、
「さっきもだったけど、鼻にくっつけないんだね。服が汚れるから?」
「いえ、このくらい離したほうが、よく楽しめますので」
といっても、楽しむどころではなかった。いや、楽しんでいたのかもしれない。それは自分でもわからない。自分でもわからないことはともかく、意識の上では、陛下にご満足いただくことしか頭になかった。
「そうなんだー。さすが経験者って感じ」
陛下は、首を伸ばしているのに疲れた、というようにお身体を倒され、私の膝にお顔を埋められた。
「ひかるちゃん、変態だ」
嬉しそうに陛下はおっしゃられた。どうやらご満足いただけた、と感じた。
頭が、すっ、とした。
時間感覚が一瞬途切れた。過ぎたのは1秒か、1分か。10分ということはなさそうだった。
「――十分に堪能させていただきました。これはもうお返しいたします。
出発まで、あまり時間がございません。シャワーをお使いになられては」
陛下は、面倒くさそうにお身体を起こされて、眠そうな目で私をご覧になった。
「……はーい」
私の手から下着をお取りになると、それを指で振り回しながら、陛下は部屋を出てゆかれた。
私が護衛官に選ばれたのは、私が女で、まともな選考対象のなかで一番若かったから、というだけなのではないか。
それは真実だったかもしれない。
けれどもう私は、それが嫌ではなかった。私は運がよかった。そのおかげで私は、陛下の前を通りすぎるのではなく、お側に仕えることができた。
たとえようもなく信頼され愛されながら通りすぎるより、少しだけ信頼され愛されながらお仕えするほうが、いい。
私は陛下のお側に仕えたい。ほかのことはみな言い訳と、口実と、照れ隠しだ。
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