このタイトルを打つたびに、必ずミスタイプする私である。別に『1942』をやりこんだわけでもないのだが。
天皇制専用の言葉について。
皇族の身辺警備のことを、行政用語では「警衛」という。皇族以外の身辺警備は「警護」である。これはほんの一例にすぎない。天皇制にかかわる行政には、専用の言葉が、掃いて捨てるほどある。宮内庁に勤めでもしなければ、全部を知ることは非常に難しい。
そんなわけで、天皇制専用の言葉は基本的に使っていない。完璧に使いこなせれば美しいのだろうが、つぎはぎは気が進まない。
*
『公邸の女中の制服は、メイド服に変更』
『中身は全員中学生』
陛下が国王に即位なさった直後、国王財団理事会に最初に出した要求が、この2つだったという。この話を聞かされたときには、就職を誤ったかと思った。
前者は問題なく通った。国王公邸は戦前に建てられた日本建築だから、洋装のメイドが働くのは、かなり奇妙な光景だ。とはいえ、公邸に暮らすのも、メイド服を着せられるのも、理事たちではない。
後者の要求も、かなり真剣に検討されたらしい。要求が受け入れられなければ退位する、と陛下は主張なさった。そのときは即位式もまだで、しかも陛下は19歳だった。ただの脅しと無視することはできない。陸子陛下ほどのスター性のある国王は、そうそう出るものではない。
女同士なら、たとえ間違いがあっても子供ができるわけではないし、なんとかして――という流れだった。しかし最終的には、公邸の女中がつとまるような中学生がいないので、20代前半で揃えることで妥協した、と聞いている。
陛下のご趣味には別段心を動かされなかった。が、『全員中学生』という要求が、私を不安にさせた。
私が護衛官に選ばれたのは、私が女で、まともな選考対象のなかで一番若かったから、というだけなのではないか。
私が初めて陛下にお目通りしたのは、護衛官選考の一次面接だった。
護衛官選考の面接はすべて陛下ご臨席で行われる。即位したばかりの国王の顔を、間近に見ることができるわけだ。そのため野次馬受験も多い。護衛官はまがりなりにも公務員である以上、たとえ露骨な野次馬受験でも、形式的には平等に扱わなければならない。野次馬受験者を振るい落とすのがこの一次面接の目的で、そのため一人に3分しか使わない。
かくいう私も、その野次馬受験者のひとりだった。当時の私はまんが家を目指していた。見物できるものは見ておけ、というのが表向きの動機だった。つまり、面接官にきかれたら、そう答える予定だった。
「1421番、設楽光さんですね? どうぞ」
大統領府ビルの会議室。学校の教室のように広々とした部屋だった。部屋にあったのは椅子だけで、机がなかった。
これはあとで知ったことだが、陛下は、人と相対なさるときには、けっして机を挟まない。演壇に立たれるときにも、机を置かせない。机は、私とあなたのあいだに線を引いてしまうから、と。
私が室内に入ると、脇に控えていた役人風の男が立ち上がり、書類を見ながら言った。
「ご紹介申し上げます。こちらは設楽光さん、千葉市出身、21歳です」
「はじめまして、設楽さん。私は波多野陸子と申します。どうぞおかけください」
陛下のしゃべりかたは独特で、よく『アニメ声』と言われる。まるで子供向けアニメの声のように、抑揚が大げさで、特有のリズムがある。
「設楽光と申します。陛下のご尊顔を拝しお言葉を賜り、光栄の至りでございます」
大統領府の役人が、『面接対策はずいぶんなさってきたようですね』というような、野次馬受験者への嫌味を言い、私はそれを軽く受け流す。そのあいだ陛下は、私の顔をしげしげとご覧になっていた。私のほうが陛下のお顔を拝したいところなのに、あべこべになっている。妙な気分だった。
陛下はまだ19歳であられた。だから私は、ご臨席での面接といっても、陛下おんみずからご下問くださるとは思っていなかった。が、陛下は、渡された書類をちらっと見ると、
「設楽さんは今は、まんが家のアシスタントをなさっているそうですね? どんな作家さんとお仕事されてるんですか?」
私は3人の名前を挙げた。すると陛下は、
「もしかして、××編集部にご縁が?」
「ご賢察恐れ入ります。もしかして陛下も――」
編集のバイトかなにかで関係していたのだろうか。敬語の言いまわしが出てこなくて一瞬詰まると、
「はい、描いてました」
瞬間、なんとも言いようのない緊張が走った。
即位からこのかた、陛下のことならどんな些細なことでもニュースになってきた。それなのに今まで、まんがのことは報道されずにきたのだから、ほとんど仕事がなかったにちがいない。あるいは、陛下の痛いところに触れているので、特に秘密にしているか。
「あ、これ、秘密ですよ。だってもう新作は描けないんですから。
新作をどんどん出していけば、昔のヘタなのも、埋もれてくれるかなー、見逃してくれるかなー、って思うじゃないですか。でもそうじゃないと、昔のヘタなのが埋もれないんですよ! ずーっとそのまんま! これ恥ずかしいですよね」
「わかる! 昔の原稿なんて、もう目に入っただけでヤバい――」
陛下は国王という特別な地位にある。では陛下ご自身は、その地位に見合うような特別さをお持ちだろうか。陛下の血は青いだろうか。陛下の額には特別な印が描かれているだろうか。
いいや、まったく。陛下のどこにも、特別さを示す徴はない。国王という特別な地位は、陛下になんの影も落としていない。だから私は時々、陛下のおられる地位を忘れてしまう。このときが、その最初だった。
「――失礼しました。矩を越えた口をききましたことをお詫びします」
「えーっ、いいじゃん! そりゃ私は国王だけど、ひかるちゃんのほうが年上でしょう?」
「恐れながら申し上げます。
護衛官が陛下に礼を失すれば、陛下の威厳が損なわれます。我が国の人心の要(かなめ)となることが陛下の大業(たいぎょう)、威厳を損ねては妨げになります」
「ま、『威厳の高揚』も護衛官のお仕事だもんね」
そこへ役人が口を挟んだ。
「陛下、お時間になります」
「またねー、ひかるちゃん」
私の人生はこのときを境に、道を変えた。
数週間後、私は最有力候補として、最終面接に残っていた。陛下を説得しがたいと思ってか、私のほうにも財団理事がきて、辞退を要求したりもした。
私と陛下の側には理はなかった。国王はつまるところ千葉の飾りだが、護衛官は国王の飾りではない。千葉王位わずか50年の歴史のなかで、6人の国王のうち半数がテロに斃れ、4人の護衛官が殉職していた。護衛官の能力は、千葉という国家の運命さえ左右する。私は、体が小さいというだけでも、護衛官失格だった。
しかし私の覚悟は決まっていた。
そして、最終面接。
机を取り払った会議室のなかで、陛下と二人、向かい合う。
陛下はいつになく落ち着かない様子であられた。はじめの二言三言は面接らしいことをおっしゃって、それから心中を打ち明けてくださった。
「もし私がひかるちゃんを選んだら、ひかるちゃんが私の楯になってくれるんだよね?」
「はい、誓ってお守り申し上げます」
陛下は、座っているのがもどかしいというように席を立たれた。私も遅れず立ち上がる。陛下は一歩前に踏み出され、それから横を向かれ、
「もし私が襲われて、ひかるちゃんが私のかわりにやられて死にそうになったら、私、どうすればいいの?」
「どうしていただけますでしょう? 楽しみでございます」
「楽しみだなんて!」
陛下は身をよじるようにして振り向かれた。陛下には芝居がかったところがあられる。
「私も、ときどき想像します。テロに遭って、自分は無傷なのに、陛下は致命傷を負われて余命いくばくもない、という場合のことを」
感情を高ぶらせて赤くなっていた陛下の頬が、さっと白くなった。
「きっと、どうしようもなく辛くて、悲しいだろうと思います。
でも、そういう辛い悲しいことを想像すると、気持ちよくなります」
陛下は、白い頬のままで、しばらく黙っておられた。
「…………どういうこと?」
「申し上げましたとおりです。辛い悲しい目にあうことを想像すると、気持ちよくなります。恐れながら陛下も、私と同じではないかとお見受けします」
「気持ちいいわけ……ないじゃない……」
白かった陛下の頬に、ふたたび赤みが差す。
私は頭を下げた。
「推参をお許しください」
(推参:さしでがましい行動に出ること)
そして陛下のお側に寄って、その御手をとった。
「大勢の前で言えば人の顰蹙を買うことでも、二人きりのときに言えば相手の心をつかむ、そういう言葉がございます。私は、さきほどの陛下のお言葉に、心臓をつかまれた思いがいたします。
陛下、どうか私を護衛官にお選びください。
私よりうまく陛下をお守りできる人は、ほかにいるでしょう。けれど、もし陛下の楯となって命を捧げる日がきたとき、満ち足りて死んでゆけるのは、ほかの誰よりも、この私です」
私が申し上げているあいだじゅう、陛下はうつむかれて、小さく震えておられた。私の声がやんでからしばらくも。
それから、ゆっくりと、私の手を握り返してくださった。最初は弱く、だんだん強く。
「……ひかるちゃんの言うとおりだね。そういうこと想像すると、気持ちいいよ」
「それでは、私をお選びになるべきではない、ということも、ご承知ください」
陛下は、驚いたお顔を、私に向けられた。
「陛下はその気持ちよさに目を奪われていらっしゃいます。私が護衛官にふさわしいかどうかを、もう一度よくご検討ください。護衛官の満足よりも、陛下の御身が大切でございます。御身を守ることだけをお考えください。私よりうまく御身をお守りできる人は、ほかにいるはずです」
「……ひかるちゃんは、護衛官になりたい?」
「はい」
「じゃあ、やっぱり、ひかるちゃんが私の護衛官だよ」
「恐れながら陛下――」
「国王の威厳を高めるのも、護衛官のお仕事だよね?」
「はい」
「死ぬのが怖くて、そればっかりの国王には、威厳なんてないよ?」
「陛下、それは――」
「お黙りなさい!」
私は口をつぐんだ。
沈黙が、竜巻のように湧き起こり、陛下の一喝よりも強い力で、私を圧倒した。そして、
「……こういうこと、初めて、言っちゃった」
そのお言葉が、私を抱きとめた。永久に。
「差し出がましい物言いをしましたことをお詫びします。
護衛官のお役目、つつしんで承ります」
もしかして、あの一幕はつまるところ茶番で、私は女で最年少だから選ばれたにすぎないのか――私はそんな不安に襲われた。
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