http://www.guardian.co.uk/g2/story/0,,1088886,00.html
2003年、イギリスの大衆紙デイリー・ミラーの記者ライアン・パリーは、バッキンガム宮殿に従僕(footman)として雇われた。もちろん王室側は、彼が記者であることは知らなかった。潜入取材は2ヵ月間続いた。取材成果を発表した記事は、世紀の大スクープとなった。
パリーはバッキンガム宮殿の日常生活をたっぷりと観察した。ただし、その全容を知ることはできない。プライバシー侵害で起訴され、記事の差し止めを受けたためだ。それでも、スクープ第一報には、興味深い情報がたくさん盛り込まれている。
たとえば、女王の朝食のテーブルには、コーンフレークなどを入れたタッパーウェアが乗っていたという。
*
公邸には護衛官の執務室がある。屋敷の隅の4畳半だ。戦前にこの屋敷が建てられた当時は、書生部屋だったという。政府のオフィスのなかで畳敷きなのは、おそらくこの執務室だけだろう。
護衛官は組織上、一個の独立した省庁のようなものなので、書類仕事は無限にある。一番の書類である予算と調達は、さすがにずいぶん楽にされているものの(もし予算と調達を自分でやっていたら警護をする暇がない)、他省庁とのやりとりがある。警護上の要望や、その調整のための根回しといったことだ。
こうしたことはみな、手を抜こうと思えば、いくらでも抜ける。私がやらなくても、財団の警護部がそれなりにやってくれる。完璧にやったからといって、完璧な警護ができるわけでもない。警護が失敗する日がきたときに、「私はちゃんとやっていた」と主張しても、自分自身への慰めにさえならない。
手を抜かずにやっても、効果はあまりない。各省庁の担当者の人事のほうが、はるかに効く。私が書類を何センチ作っても、無能な担当者はどうすることもできない。護衛官はただ意見を述べるだけで、権限はなにもないのだ。財団の警護部長は、『10年も勤めていれば自然とみな言うことをきいてくれるようになるよ』と言っていた。しかし、はたして10年も生きていられるのかどうか。過去50年で4人の護衛官が殉職している。
が、私は暇さえあれば、書類仕事に励んだ。陛下のためになにかしている、という自己満足が大きな理由だった。
国王の仕事は、公邸外でのものが当然多いが、公邸でこなすものもある。たとえば、文通相手の小学生に手紙を書くこと。
子供に国王への親しみを持たせるために、小学生と文通する、という制度がある。相手の小学生は毎年、希望者のなかから5人が選ばれる。代々の国王陛下はみなこの手紙を楽しみになさっていたとか。陸子さまも例に漏れない。月に一度、まる一日をかけて、幸運な5人への手紙を書いておられる。
今日がその手紙の日だった。
陛下は、国王官房の職員を相手に、手紙を口述なさる。私は会議などに出ることもあるが、今日は公邸で書類仕事をこなしていた。
こんな日の昼食は楽しい。陛下は、客のないときの昼食は、公邸の使用人と食卓を共になさる。メイドたちはみな、身の回りで起こった愉快な出来事を、無限にためこんでいるらしい。『どうしても陛下のお耳に入れたい』という小話が、尽きることなく飛び出してくる。
そんなお昼休みのあと、おやつの時間(このとき陛下は私をお呼びになる)の前、私は執務室で、警備計画の改善すべき点をこねくりまわしていた。
「ひかるちゃん、はいるよー?」
陛下のお声に、私はとっさに居住まいを正した。
「お通りください」
襖がすべる。
「いま忙しい?」
「いえ、なんなりとお申しつけください」
「それじゃあね――実験」
私の目の前で、陛下はブラウスをお脱ぎになった。
「これ、ここに置いておくからね。ひとりで勝手にしちゃだめだよ? もししちゃったら、ちゃんとそう言うんだよ?」
「心得ております、陸子さま」
「じゃーねー」
上半身を下着姿で、陛下は出てゆかれた。
いくら公邸の中とはいえ、官房職員の前に、あのお姿でお出でになることはないだろう。大沢さん(お召し物を担当するメイド)に言いつけて、新しいものを召されるのだろう。が、そのとき、このブラウスの行方をどう説明なさるおつもりなのか。
まさかこんなことに使われているとは、誰も夢にも思うまい。けれど、もし私の以前のあのときの姿を、使用人の誰かに見られていたら――こういう噂は、本人にだけはけっして届かない。
それに、陛下はいま、小学生へのお手紙を草しておられる。その最中に、なぜこんなことを思いつかれたのか。もしかしたら陛下は小学生にも――無礼な疑いではあるが、まるで的外れとも思えない。
あれこれと心配しながら、私は陛下のブラウスを手にとっていた。
手にとっていた。
手に。
狐につままれたような、とはこのことだった。自分ではまるでそんなつもりはなかった。『どうしても手に触れたい』というような衝動もなかった。
自分に言い聞かせる。大丈夫、このことを正直に陛下に申し上げて、叱っていただけばいい。自分ひとりで抱えていてはどうしようもないことでも、陛下が叱ってくだされば、きっとなんとかなる。
私はブラウスを畳んで、文机の前に戻った。
書類仕事を再開する気になれず、ブラウスを遠くから、ちらりちらりと眺める。
この実験で、どんな結果が出れば、陛下に喜んでいただけるのだろう。我慢できたかどうかは問題ではないはずだ。問題は、どんな経過をたどり、それをどうご説明申し上げるか。
さっきの経過は、そのままでは、あまりにも劇的でなさすぎる。「気がついたら手に取っていて、驚いた」。これにどんなストーリーをつけられるだろう。
いっそのこと、心ゆくまで楽しんで、それを叱っていただくほうが、陛下を楽しませてさしあげられるのでは?
いや。陛下のお言いつけは、『ひとりで勝手にしちゃだめだよ』のほうが優先だ。陛下の御為と言いながら、陛下のお言いつけに背くわけにはいかない。出来事を作ることはできない。
ああでもない、こうでもない――私はひとしきり熱心に考えて、結局、『告白するタイミングで盛り上げる』という結論を出した。
最初は、問題なく我慢できたような顔をする。しかし、ブラウスが畳んであるのをご覧になった陛下は、私がその服に触れたことにお気づきになられるかもしれない。そうしたら、『実は……』と告白する。もしお気づきになられなくても、やはりすぐに告白する。
「じゃーん!」
襖がすべった。
予想外に短い実験時間だった。陛下はまだ上半身を下着姿でいらっしゃる。これなら大沢さんに言い訳することもないわけだ。
「ちゃんと我慢してるんだー、えらい、えらい。
……これ畳んだのって、ひかるちゃんだよね?」
陛下は見逃されなかった。
「それは――」
陛下はブラウスに袖を通され、手づからボタンをおはめになりながら、
「触ったんだよね?」
「はい」
「匂いはかいだ?」
「いいえ」
「楽しかった?」
「気がついたら、手に取っておりました。自分でもよくわからないままでございました」
「ちょっと進歩したんだね。よくできました」
意外にも陛下はお褒めの言葉をくださった。陛下はこういうことを皮肉でおっしゃるかたではない。
「でも、できなかったところは、ちゃんと叱ってあげる」
そうおっしゃると陛下は、まるでなにかを待っているかのように、私の顔を見つめたまま、しばらく黙っておられた。
と、不意打ちのように微笑まれ、おっしゃった。
「おあずけもできないだめなへんたいのひかるちゃん、今度はちゃんとしてね?」
「はい…… 陸子さま」
私は、なにかに抱きしめられたように、体の力が抜けて、あたたかくなった。
「じゃーねー」
陛下はゆかれた。
あとは何事もなく、おやつの時間になった。
座にいるのは、官房職員と私と陛下。官房職員が邪魔だったが、もし彼がいなければ、今度はお茶の世話をするメイドが邪魔になっただろう。公邸では、メイドの目の届かないところで陛下と二人きりになるチャンスは多くない。
官房職員は、いかにも宮廷人という風の、顔も弁舌も滑らかな男だった。陛下が、子供たちの手紙のことを話し終えたと見ると、彼はこう言って水を向けた。
「そういえば陛下、平石さんからのお手紙のことですが」
「あーそうそう」
平石というのは、2年前に陛下と文通していた子供で、それが久しぶりに手紙をくれたのだという。
「面白いんだよ。小学校を卒業してすぐに、イギリスの執事の養子になったんだって」
「未成年の国際養子ですか。人身売買を禁止する法律にひっかかりそうですが」
「年をごまかしたんだって」
「にわかには信じがたい話ですね」
官房職員が言う、
「いま、この件で外務省が、日本とイギリスの当局と揉めています」
世の中いろんなことが起こるものだ。
「まず、その執事さんの紹介で、貴族のお屋敷で1年間働いて、そこから転職して、バッキンガム宮殿に半年」
「イギリス貴族の使用人の世界というと、よそ者が入り込めるものではなさそうですが、東洋人も採用されるのですね」
「ひかるちゃん、話きいてる?」
「ええ――」
小学校を卒業してすぐに――すぐに?
平石という子が陛下と文通していたのは――2年前?
「わかってきたみたいね?」
「……いま、その平石という子は、中学生のはずでございますね?」
「正解! その子、このあいだ千葉に戻ってきて、いまから財団にかけあうんだって。ここで働きたい、って」
中学生のメイド。陛下が即位後、最初に要求なさったもの。
「お話をうかがったかぎりでも、叩けばホコリの出そうな子ですが――」
年をごまかして国際養子? 小学校を出たばかりの子供がそんなことを? ひとりでは無理だ。相当な力のある誰かがやらせているか、力を貸している。
「面白そうでしょ?」
私は官房職員の顔をちらりと見た。その顔を見て、はっきりした。この平石という子をどうするか、財団内で問題になる。
陛下はぜひ雇いたいとのご意向だろうが、財団はこんな怪しい人間を公邸内に入れたくはないだろう。どちらの側につくか、態度を示せ――陛下と官房職員は、暗にそう言っている。
私はもちろん、陛下の側についた。
「中学生をメイドに雇うのは、陛下の夢でございましたね。ただ、まるで中学生らしいところのない子だと思いますから、一度お会いになってからご検討なさったほうがよろしいかと存じます」
留保をつけたようでも、実はまるで留保ではない。陛下は、凛とした行動力のある人がお好きだ。平石という子が本当にそんなことをしてきたのなら、陛下のお気に召さないはずがない。
ふと気がついた。
さきほどの、陛下のご実験。
あれは、もしかして、平石という子からの手紙に触発されてのことでは。その子が公邸にきても、以前と変わらず私に接してくださるということを、態度で示されたのでは。
そう考えて――それがあまりにも自分勝手な推理なので、そんなことを考えてしまっただけでも恥ずかしかった。
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