制度の設計は難しい。
どんなに小さな制度でも、全体を見通すことは不可能に近い。たとえば、読者諸氏ご自身の自室である。部屋のなかにどう物を配置し、どのように使うか。それが制度だ。
人の生活する部屋では、すべての物は、なんらかの理由があってその場所に置かれる。目的はなくても理由はあるのだ。どれほど乱雑で、秩序のかけらもない部屋であろうと、でたらめに物を置いただけの部屋とは明白に違う。
フィクションのための制度を設計するのは、人が生活しているように見える部屋を作るのに等しい。
そういう部屋を作るには、どうすればいいか。
実在の部屋をいくつか調べて混ぜあわせると、だいぶそれらしいものができる。といっても、数学的に混ぜあわせたのでは、まったくお話にならない。機能を考え、誰がどう使うかを考えて、分離・合成しなければならない。
どれほど考えても、これで完璧、ということにはならない。細部の整合性は、けっして合わせることができない。論理的・物理的な整合性なら簡単だが、生活習慣のうえでの整合性というものがある。なにげなく物を置くときに、どれだけ人の個性が出ることか。
*
護衛官はいつもは、公邸の玄関前で、一日の仕事を始める。陛下のご外出に付き添って警護するのだ。外出から戻ると、同じ場所で仕事を終える。
今日は、午後5時ちょうどに、公邸に戻った。9月の初旬のことで、日はまださんさんと照っている。
「ひかるちゃん、今日もありがとうね。じゃーねー」
陛下をお見送りしたあと、私は官舎に帰ろうと、通用門に向かった。そこへ、勝手口からメイドが走り出てきて、私に声をかけた。
「設楽さま、少々お時間をよろしいでしょうか」
女中頭の橋本だった。女中頭のしるしである、髪飾りをつけたカチューシャがよく目立つ。この髪飾りは、金銀と玳瑁で薔薇をかたどった豪奢なもので、陸子陛下おんみずから、かなり念を入れてお選びになった品だという。しかし中身は髪飾りとは正反対に地味で堅い。
「ええ。中で話しましょう」
台所の隣にある控室に入り、引き戸をぴしゃりと閉めると、彼女はエプロンのポケットからB5の紙を取り出した。雑誌記事のコピーのようだった。
「明後日発売の、日本の週刊誌です」
見出しにはこうあった。『千葉女王、愛人の女子中学生をメイドに?』。
中身にざっと目を通す。『かねて同性愛のロリコンを噂される千葉女王』『即位の直後、公邸で働く女性の制服をメイド服に変えさせ』『女子中学生を雇うことについに成功』――醜聞というほどのものではないが、気になる記事にはちがいなかった。公邸の人事は、安全上の理由から秘密にされている。関係者の誰かがリークしたのだ。
話題の女子中学生こと平石緋沙子が、まるで平凡な子供のように書かれていることも気になった。これはおそらく、無邪気で偶発的なリークではなく、なんらかの狙いがある。
「これは、私に見せてはいけないものでは?」
明後日発売ということは、印刷所どころか出版社から取ってきたものだ。国王財団の諜報活動の成果にちがいない。
「読んだあとでおっしゃいますか」
「秘密にします。
陛下には内縁の配偶者がいる――なんて嘘を平石さんに教えたのは、あなたでしたか」
「なんのことでしょう?」
女中頭はいったい、とぼけているのか、本当に知らないのか。容易に判断がつくようでは、この仕事はできないだろう。女中頭は、公邸内における非公式な人間関係について責任を負っている。非公式な人間関係とは、派閥、いじめ、そして恋愛沙汰だ。
「忘れてください。
広報部はこれの対抗宣伝をやるわけですね?」
「はい。明日、平石さんがTVに出るそうです」
あのでたらめなキャリアを、全国に公表するとは。ここで引き下がっては、なんのために公邸にきたのかわからない――というわけだろう。私はちょっと平石緋沙子に同情した。
「心の準備はできました。ありがとうございます」
「平石さんがここをお辞めになれば、もっと丸く収まると思うのですが」
と、女中頭は目論見を白状した。
私は彼女のあさはかさを指摘した。
「この件はまだ私には秘密のはずですが、漏らしたのは誰でしょう? あの子なら気がついて逆ねじを食わせます。機密保持にかかわる問題提起を、橋本さんの裁量で止めることはできないはずです」
「設楽さまは、それでよろしいのですか? 広報部がどんなストーリーを作るか、設楽さまならご想像がつくかと思います」
相思相愛の線を強くアピールするだろう。
「陛下はお心の広いかたです。いまさらファンがひとり増えたくらいでは、気に病んだりはなさらないでしょう」
「私は、設楽さまのお気持ちを慮って、申し上げているんです」
なにをおためごかしを――一瞬そう言いそうになって。
そのとき私は初めて、女中頭の顔を、ちゃんと見たような気がした。
女は、自分よりずっと美しい女を長いこと見ていると、自尊心をすり減らすという。陛下と女中頭なら、すり減るのは女中頭のほうだ。だとすると女中頭の自尊心は、もし減ったのだとしても、元が十分に多かったのだろう。きりり、という音がしそうなほど、顔に出ている。
嘘のない顔だと思った。
「……いつまでも篭っていては、目立つかもしれません。裏庭でも歩きましょう」
私は返事を待たずに控室を出て、靴をはいた。
裏庭は立ち木もなくがらんとして、学校の校庭を思わせる。屋敷のそばに花壇があるのがまた校庭らしい。私はその花壇のそばを歩きながら、
「橋本さんがその髪飾りをつけてから、もう1年半になりますか。よくお似合いです。
お子さんはいま幼稚園でしたか? ……ああ、かわいい盛りですね。旦那さまもおかわりなく? ……それはなによりです」
年はきかなかった。たしか、26か7だったと思う。陛下が即位されて公邸の使用人が総入れ替えになったとき、メイドは20代前半で揃えた。当時の女中頭に次いで年長だったのが、彼女だった。
のんびりと彼女のことを尋ねていると、
「あまり長いこと持ち場を離れたくありません。単刀直入におっしゃってください」
「橋本さんは、実るべきものを実らせている――そう思いまして。
私は陛下をお慕い申し上げています。この気持ちは、なにを実らせるべきでしょう。
橋本さんは、私のことを、ご自身のなさりようにひきつけて考えていらっしゃると思います。けれど私は、橋本さんのなさっているようには、物事を実らせることがありません」
「そんな……! 設楽さま、もっとお気を強く持ってください。
設楽さまがそのおつもりになれば、陸子さまとどんな道でも歩むことができます。私は女中頭です。この判断には自信があります」
私は笑ってみせた。
「どんな道も必要ありません。いま、ここが、私のいるべきところです。陛下のお許しがあるかぎり、私はここにとどまります」
陛下がなにかの折りに雑談で、おっしゃっていたことを思い出す。
『でも天才って、目指すものがないから、辛いんじゃないかな』
私も陛下も、かつてはまんがを描いていたので、ときどき作品制作のことが話題になる。もし自分が、まんがの天才だったら? そんな話に及んだときだった。
数学や自然科学の世界なら、天才は、論理や自然に働きかけて成果を得る。凡人のまんが家は、切れ味鋭いネームや説得力のある構図を求めてさまよう。どちらも、自分の外にあるものを求めている。けれど、まんがの天才は、きっとそういうものではない。凡人のまんが家の目標が意味を失うような別の世界に、その作品はある。まんがの天才には、きっと、自分の外にあるものが不要なのだ。
なら、まんがの天才は、なにに働きかけ、なにを求めればいいのか。自分の外にあるものが不要だというのは、作品制作には素晴らしいことでも、生きるという面では不幸なことではないのか。
いまの私が、それと同じだ。
「設楽さま、それは嘘です」
女中頭の顔が、きりり、と音をたてたように思えた。
突然――私は、抱きしめられていた。
「人は否応もなく変わっていくものです。立ち止まっていることなどできません。
設楽さまが陸子さまとゆかれるのでなければ、私が設楽さまをさらってゆきます」
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