「非公式な人間関係」について。
諜報機関が情報を得る方法は飛躍的に広がりつつある。通信傍受や衛星画像はいうに及ばず、行政機関の公開する情報も量と範囲が増えた。また、民主主義や法の支配が強まった現在、少数の強力なスパイにできることは限られつつある。
それでも今のところはまだ人間は、システムのなかの弱い環であり、優先度の高い目標でありつづけている。
人間そのものがオールドファッションな目標なので、その攻撃手段もやはりオールドファッションだ。情、つまり人間関係は、金と並んで重大な脆弱性である。
*
発信者番号通知。
プライベートの携帯番号を、女中頭――橋本美園に知らせたものかどうか、考える。もし非通知でかければ、彼女を拒絶するというメッセージになる。それよりは、かけないほうがいい。番号を通知すれば、彼女の話を聞くというメッセージになる。だが、こちらの携帯番号を知らせることは、それ以上のメッセージになりはしないか。
だいたい、『さらってゆきます』というのは、なんのつもりなのか。
女中頭は公邸内の非公式な人間関係に責任を負う。ただのメイドならともかく、女中頭が護衛官と特別な関係に陥れば、公邸にはいられない。彼女はそこまでするつもりがあるのか――あるのだろう。でなければ、公邸の裏庭であんなことはできない。
彼女の顔を、思い出す。 カチューシャの髪飾りの重さに負けじとばかりに、胸を張って顎を引いた、誇り高い顔。
あの顔に、目をそらしたくない、と思った。
番号が通知されるままにして、名刺の携帯番号にかけた。
が。
つながったのは、留守電だった。
拍子抜けして、床にごろりと転がる。
私の家は、公邸のそばの官舎だ。庭つき一戸建てで、ひとりで住むと庭仕事や掃除に手が回らない。そこで、ありがたいことに、公邸のメイドがときどき来てくれる。独身だから特別に、とのこと。
陛下との雑談に備えて、ゲームをしようかと思った矢先に、携帯に着信があった。
かけてきたのは、橋本美園。
「設楽です」
「ひかるさん?
ほんとにかけてくれたの?
実はあのとき陸子さまがご覧になってて、陸子さまのお言いつけでやってる、なんてことないでしょうね?」
さすがは女中頭、疑り深い。
「かけてはいけませんでしたか?」
「嬉しいけど、ちょっと意外だな。そんなに女の子に飢えてるの? うちの子を誰か食べちゃえばいいのに。ほら、陸子さまがあれだからさ、みんな食べられるよ?」
「意外といえば、橋本さんが、職場と同じかたとは思えないのですが」
「そう? 敬語に惑わされてない? ――そうか、あっちのほうが萌えるんでしょ? ちょっと待って、頭切りかえるから。
……お待たせしました、ひかるさま。
こんな人さらいのところに、暢気にお電話をくださるだなんて、正気の沙汰とは思えません。ひとつのところに長く居すぎて、正気をなくしてしまわれましたか?」
「どう考えても、敬語だけの問題ではないのですが」
「ちがった話し方にはそれぞれふさわしい申しようがございます。
ひかるさまは、私のような女に抱きしめられるのは、慣れておいででしょう。わかります。でも逆はそれほどでもないご様子」
突っ込まれてもペースを崩さない。さすがは女中頭だった。
「おっしゃるとおりです」
「慣れないことを避けてばかりでは、もうじき私にさらわれてしまうことでしょう。もっとも、ひかるさまも、それをお望みのようですけれど」
「橋本さんが――」
その瞬間、ぴしゃりと、
「美園、とお呼びください」
素晴らしい威厳だった。
「――美園さんが、なにを望んでいらっしゃるのか、私にはわかりません。私を陛下にけしかけたかと思えば、私をさらってゆくとおっしゃる。お気持ちをきかせてください」
「そうやって人の気持ちを忖度してばかりのお心から、迷いを取り除いてさしあげたい、それが私の望みでございます。陸子さまとゆかれるにしろ、私がさらってゆくにしろ、ひかるさまのお心に迷いがなくなるのは同じこと」
彼女がどれくらい本気なのか、つついてみたくなった。
「私をさらってゆくとおっしゃいますが、客観的にみれば、美園さんの立場は弱いと思います。
もし女中頭が護衛官と特別な関係になって、それが公になれば、女中頭は公邸勤務から外されるでしょう。それに美園さんは結婚なさっています。仕事と家庭、両方でトラブルになるわけです」
返答は力強かった。
「それは弱みではなく、強みでございます。
もし国王陛下と護衛官が密かに特別な関係を結んで、それが公になれば、どうでしょう? 護衛官は務めを続けるのが難しくなるはず。でも相手が私であれば、露見のあとも、ひかるさまは陸子さまのお側を離れずにいられます。
家庭のことについて申し上げれば、危険な恋ほど燃えやすいもの。たとえその危険が、自分のものでなくても」
「そんな卑怯者ではありたくないものですね」
「ひかるさまが卑怯であればこそ、私は純情ぶっていられます。これが恋の勘定、貸し借りはございません」
「美園さんのお考えはわかりました。でも、まだわからないことがあります。
美園さんが私にそこまでかまってくださるのは、私へのご好意からだと思います。それは嬉しく思います。
私にかまいたくなるそのお気持ちを、『恋』と呼ぶのは、ふさわしくないようです。美園さんは、そのお気持ちをどう名づけますか?」
「『萌え』です」
まるで陛下のようなことを、と思ったが、口には出さなかった。
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