社会主義国の主人公は労働者ということになっている。
この「主人公」とはどういう意味か。
たとえば、労使対立というものはなく、賃金交渉もない。労働者が主人公だからだ。そのため労働者はみな国の言い値で働く。
たとえばTVでは、工場やコルホーズを取材する果てしなく地味な番組が、延々と流されている。誰も、労働者自身も、そんなものを見ない。
*
明日はぜひ平石緋沙子に会おう――しかし朝のブリーフィングで、その希望はかなわないとわかった。
陛下のスケジュールは、安全上の理由から、ほとんど秘密にされている。重要な行事のほかは、直前になってから出席や参加が発表される。秘密にする相手には、一般の国民だけでなく主催者も含まれ、さらには護衛官さえ含まれる。護衛官が陛下のスケジュールを知らされるのは、当日の朝のブリーフィングのときだ。
それでも、たいていの日は、公邸から出て公邸に戻る。だから公邸に戻ったときに、平石緋沙子に会おうと思っていた。
が。
外房のリゾートホテルの開業式に出席するため、午後から現地に飛び、一泊する。それが今日のスケジュールだった。
午後1時、公邸そばの陸軍基地から、ロシア陸軍のヘリで移動。
午後2時、地元の市長や有力者とともに、ホテルの施設や、近くの名所を見学。
午後4時、陛下の逗留される部屋へ。このあとは、7時からの晩餐会まで、なにも予定が組まれていない。晩餐会は陛下のスピーチもない。気楽なものだ。
ホテルの部屋へ向かうエレベーターのなかで、私とふたりきりになったとき、陛下はおっしゃった。
「こういうホテルって、緊張しない? お金持ちっぽいから」
「陛下のご実家も、こことそう違わないように思いますが」
「うん、だからね、いっつも緊張してたよー? ありえねー、って感じ。シンデレラの服と馬車、って感じ」
陛下のご両親は、11歳のとき、陛下を引き取って親となられた。
陛下はそれまでは、千葉市の子供の家(孤児院)におられた。陛下は捨て子だった。『陸子』という名前は、千葉市の福祉課長補佐が、本人の顔も見ずにつけたのだという。
「公邸はいかがでしょう?」
「実家より落ち着くよ。古臭いところがいいよね! 雨戸とかトイレとか。
お風呂が離れにあるのもポイント高いでしょう。冬なんか、お風呂上がりに渡り廊下を歩くから、凍えそうになったりとかね」
エレベーターを降りると、お側仕えのメイドがひとり待っていた。彼女の先導で廊下を歩いてゆく。その先のドアの前に、財団の警護部の担当者二人が立っていて、「異状ありません」と私に告げた。それを聞いて私が合図すると、先導してきたメイドがドアを開ける。
「晩餐会の時間にお迎えにあがります」
「ひかるちゃん、これから忙しいの? ね、遊んで遊んで!」
「では、お招きにあずからせていただきます」
室内に入ると、太平洋と海岸線が目に飛び込んできた。
ホテルの外壁に沿った、細長い弓型の部屋で、部屋の中央に立つと、左右の視界が180度を超える。ここの夕日は素晴らしい眺めだろう――と一瞬思ったが、外房だから朝日しか見られない。
陛下は見晴らしのよい景色を好まれる。しばらくのあいだ、その場に立ったままで、景色を楽しんでおられた。
「……これで夕日が見れたらなー」
「私はさきほど、ここの夕日を想像してしまいました」
陛下は声を立ててお笑いになった。そこへメイドが、
「陸子さま、お召し替えを用意してございます」
「あ、待たせちゃってごめん」
メイドがジャケットとスカートを脱がせ、ブラウスのボタンを外す。
私の目はいつのまにか、そのブラウスに吸い寄せられていた。
「ひかるちゃん?」
いつもと少し調子の違う、陛下のお声。
「はい」
「なんでもない」
そのお顔も、いつもよりまぶたが重そうで、そう――あのときのお顔だった。
見抜かれている。
コットンのサマーセーターと、足が透けて見えるほど薄いスカートを召されると、陛下はソファにお座りになった。私は向かい合わせに座る。
陛下は、人と相対するとき、机やテーブルを挟まないようになさる。この部屋も陛下のお好みにあわせてある。テーブルが、ソファそれぞれの左右に置いてあり、前にはない。
「こーんないい部屋に、ひとりで泊まるのかー。つまんないの」
「では私の部屋にいらっしゃいますか?」
冗談だった。が、陛下ははなはだ真剣なお顔で、
「いく」
「もっとも、本当に陛下がいらっしゃいましたら、警護に大穴を開けたということで、私は辞任しなければならないでしょうが」
「あーっ、すぐそういうこと言うんだ。かわいくなーい」
メイドが茶器をテーブルに並べてゆく。少し遅いが、おやつの時間だ。
「平石緋沙子は最近どうしていますか? 夢の中学生メイドのご感想は」
「ひさちゃんはかわいいよ! でも、夢の実現ってなかなか難しいね」
最初、平石緋沙子は他のメイドと同じように仕事させていた。が、なかなか陛下のお目に入らない。
まず、遅番だけでも4人いる。お召し物担当、美容担当や女中頭ならともかく、担当のないメイドは、庭仕事や掃除や洗濯など、あまり陛下の目につかない仕事をしている。必ず会えるのは夕食のときくらいだ。さらに、労働法の制限により、平石緋沙子は午後9時で帰ってしまう。
そこで陛下は、平石緋沙子本人に相談なさった。
「ひさちゃんがいうには、私をコンパニオンにしなさい、って。
コンパニオンってなに? お水の仕事? ってきいたら、レディの話相手とかする仕事だって。でもそれってメイドじゃないでしょう? ひさちゃんも、そうだって言ってた。コンパニオンがハウスメイドの格好をしてたらおかしい、って」
「日本建築の公邸にメイドがいるのですから、いまさら細かいことを気にしても仕方ないと思いますが」
「そうなんだよね。だから、ひさちゃんに、格好はそのままでコンパニオンになってもらったんだけど――」
隣の部屋で控えていて、呼ぶと来る。ゲームを一緒に遊んでくれる。学校の勉強を教えてあげることもあれば、英語を教えてくれたりもする。が、なにかが違う。
「ひさちゃんのコンパニオンって、友達みたいなもんなんだね。私は、もうちょっと、なんだろ、お母さんみたいなことをしてほしいんだけど――」
8つも年下の子供に、『お母さんみたいなこと』を求めてしまえる、陛下の飾らないお心。尊敬に値するといえば嘘になるが、私はどうにも、陛下のこういうところにも惹きつけられてしまう。
「――あ、お茶をいれてくれるのって、お母さんみたいだね。遠野さん、いつもありがと」
陛下は、お茶の用意をしていたメイドに、ねぎらいの声をかけられた。
「陸子さまのお褒めとお気遣いにあずかり、身に余る光栄です」
この瞬間、私は気がついた。
『ひかるちゃん』『ひさちゃん』『遠野さん』。女中頭のことは『橋本さん』、お召し物担当のことは『大沢さん』。
私と、平石緋沙子だけが、ファーストネームにちゃん付けだ。
心のなかの嫉妬メモに、このことを書きつけた。彼女に会ったときにぜひ言おう。そう決心すると、あまり動揺もせずに済んだ。こうしてみると、彼女の提案は、そう馬鹿にしたものではないかもしれない。
メイド――遠野さんがカップにお茶を注ぐと、鮮やかな香りがたちのぼった。
会話が途切れたとみたのか、遠野さんが言った、
「その平石さんですが、本日ついさきほど、TVに出演しました。こちらに録画が用意してございます。ご覧になられますか?」
「TV? 見せて。またなんか悪いことして逮捕されたのかな?」
すると遠野さんは、ぷっと吹き出し、そのまましばらく腹を抱えて、笑いをこらえていた。私にはなにが面白いのかわからなかったが、同僚だからわかることもあるのだろう。それとも、録画を見ればわかるのかもしれない。
「……失礼しました」
リモコンをいくつか操作すると、房総テレビのワイドショー番組が途中から映し出された。視聴者のリクエストに答えて、さまざまな労働現場で働いている人に生放送でインタビューをする、というコーナーだった。リクエストされた労働現場は、『国王公邸』。
インタビューは、公邸の庭にカメラを入れて行われていた。画面に映し出された平石緋沙子は、生で見るよりも年相応らしく見えた。陛下のほうがだいぶカメラ写りがいい、ということもわかった。ただ陛下は、カメラに応対する訓練を受けておられるうえ、経験も豊富なので、不公平な比較かもしれない。それでもやはり、平石緋沙子のそっけない雰囲気よりも、陛下の大げさな身振りや表情のほうが、TVカメラには向いていると思う。
『国王公邸でアルバイトをなさっている、平石緋沙子さんです。ではさっそく、質問です。国王公邸では、何人くらいの人が働いているんでしょう?』
『特にイベントのない日には、16人前後が公邸で働いています。早番・昼番・遅番の勤務シフトがあるので、16人が朝から夜まで働くわけではありません。内訳は、私たち女中が8人、料理人が2人、警備員が6人です。そのほか庭師なども必要に応じて来ていただいています』
『国王公邸で働く人は原則として全員フルタイムで採用されているそうですが、平石さんだけ特別にパートタイムで採用されているそうですね。どうしてでしょう?』
『私が中学生だからです。私の歳ですと、専門の職業教育を受けていないということで普通は採用されませんが、私はイギリスでクリーニングスタッフをしていましたので、採用していただけました』
『普通の中学生では、国王公邸で働くのは無理ですよね』
インタビュアーは驚いた顔もせず、『普通の』のところを視聴者に強調してみせた。イギリスで働いていた、というところは突っ込まずに流してしまう。財団の広報部が書かせた筋書きだろう。
仕事内容について何度かやりとりをしてから、
『平石さんは国王陛下のお側で働いていらっしゃるわけですが、そういう立場からみて、陛下はどんなかたでしょう?』
魔法をかけたように、花が咲くように、平石緋沙子の表情がほころんだ。
『素敵なかたです。この仕事の一番の魅力は、陸子さまにお仕えできることです』
『マスコミの人間からみると、陛下は大変親しみやすいご気性であられますが、お側で働いていると、どう感じますか?』
『想像以上でした。本当に誰の名前でも覚えておられて、会うたびにお声をかけてくださいます。あまりのお気遣いに、こちらの胸が痛くなるほどです』
目が潤んでいる。まさに恋する乙女だ。
『では最後に、国王陛下へのメッセージをどうぞ』
『お慕い申し上げております、好きです、陸子さま』
インタビュアーは一瞬固まったが、
『……以上、かわいいメイドさんへのインタビューを、国王公邸からお送りしました』
画面がスタジオに切り替わり、
『いや、若いって、いいですね』
『私も、あんな青春を送りたかったですね。うらやましいです』
CMに切り替わった。遠野さんがTVを切った。
「ひさちゃん、かっわいーいっっっっっ!」
両の拳をふりまわして、陛下は感動を表現なさった。
「そうだ、ひさちゃん呼ぼう! この部屋に一緒に泊まってもらうの」
「公邸からここまで、車や電車では3時間はかかります。彼女は明日も学校でしょう」
「こんなことがあったんだから、ヘリ飛ばしてもらってもいいじゃない」
「まずは電話で本人とお話しになられては」
「……ふーん?」
声のトーンが、微妙に変わる。まぶたの重そうな目。私はあわてて、
「陸子さま、これは――」
護衛官は『陛下』と呼ばなければならない。遠野さんが横にいるのに、思わず『陸子さま』と言ってしまう。
「ま、とりあえず電話しよっか。――あ、早ーい。さすがー」
遠野さんはさっそく携帯で公邸と話しはじめていた。ほどなくして平石緋沙子の声が聞こえた。陛下は携帯を受け取ると、
「ひさちゃん、いまTVみたよ! すごいすごいすっごいかわいかった! 私もひさちゃんのこと好きだよ愛してるよ大好きだよ!」
私は心の嫉妬メモにしっかりと書きつけた。
「私がいまどこにいるか知ってる? 外房のホテルなんだけど、ひとりで泊まるとつまんないから、ひさちゃんに来てもらおうかなーって。……やった! すぐ足を手配するから、そっちで待ってて。乗り物は、ヘリでいい? ……うん、待ってるからね」
陛下は電話を切ると、
「遠野さん、ヘリをなんとか回して。できるだけ早く。明日の朝の分も」
「承りました。ただ、努力はいたしますが、ご希望には沿いかねるかもしれません」
遠野さんは部屋を出ていった。
私はようやく一息ついて、ポットからお茶を注いだ。お茶は冷めていた。
陛下はおっしゃった。
「ひかるちゃんの部屋に泊まるんだったら、呼ばなかったのにね?」
どう返答したものか、少し考えた。
私は珍しく、陛下に対して、苛立たしい気持ちになっていた。嫉妬をかきたてられたせいだろうか。いや、そうではない、と思える。
「……恐れながら申し上げます。
私は、陛下の慰みものにしていただけるだけでも、幸いでございます。ですが、平石緋沙子を私と同じように扱うのは、おやめください。
私は純情とは程遠い人間ですが、彼女はあのとおりです。守ってあげるべきではないでしょうか」
陛下は目を丸くなさった。
「うわ、ひさちゃん、すごいなー。魔性の女だ。ひかるちゃんを取られちゃうかも。
ま、そうなったら、ひさちゃんには辞めてもらうけどね。ひさちゃんが辞めても、ひかるちゃんは辞めないでしょ?」
陛下は、同情をけっして惜しまないかただが、時として、人間の感情に対してきわめて冷酷な態度をお取りになることがある。捨て子として子供の家でお育ちになったせいかもしれないと、私は思っている。
「なんと申し上げてよいのかわかりませんが――」
「ひかるちゃん、いま私のこと、『育ちの悪い奴だなー』って思ったでしょ?」
そして、人間の感情に対してきわめて敏感でもあられる。
嘘をつくのは簡単だった。陛下はこういうことにこだわるかたではない。ただ、つきたくなかった。
「……はい。ですが、だからといって――」
「私は気にしてるけど、ひかるちゃんは気にしないで。
それ、みんな思ってることだから。ひさちゃんなんか露骨だよ。だから、ひかるちゃんは気にしないで。私は気にしてるけどね」
「陛下、恐れながら――」
陛下は眉を寄せ、唇をとがらせて、おっしゃった。
「ひかるちゃん、さっきから言い訳してばっかり」
「……申し訳ございません」
陛下はソファから腰をあげられ、その場でくるりと半回転なさると、私の隣にお座りになった。肩が触れたので、私は体をずらして、陛下のための空間を作った。
「あ、逃げた」
陛下も体をずらして、私の作った空間をなくしてしまわれた。
「恐れ多いことでございます」
「ひかるちゃん、笑って?」
陛下はこういうことをよくお望みになる。その慣れで、私はとっさに作り笑いをした。
「もっと。目をうるうるさせて、頬を赤くするの」
その陛下のお顔は、まぶたの重そうな、あのお顔だった。
「私の服の匂いを、かいでるときみたいに。
――そう。そういう顔」
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