えんげるすタンがまるくすタンに尽くす第1部。
れーにんタンがハーレムを作る第2部。
資本=モテ。
嘘ではない。本当にそういう話だ。
本当にほかに書くことがないので、まるくすタンになったつもりで、資本=モテという見立てについて考察してみよう。
恋愛についての物象化が著しい今日このごろ、読者諸氏はいかがお過ごしだろうか。
この世には、言わないための言葉というものがある。「ソリューション」がその典型だ。この言葉は、実装について言わないときに使う。「スキル」もその同類で、やるか・やらないかを誤魔化したいときに使う。「スキルがある」と「やる」の関係は、ソリューションと実装の関係に等しい。前者について語るのは、基本的に時間の無駄だ。
コンピュータとクライアントは最終決裁者である。最終決裁者の前に立つプログラマは常に真実を突きつけられている。やるか、やらないか。真実はそれだけだ。ここには物象化が入り込む余地はない。
さて、恋愛には、こうした最終決裁者がいない。
正確には、「恋愛」と一般化した瞬間に、いなくなる。AさんとBさんの関係なら、常に決裁されつづけている。つまりAさんとBさんは常に真実を突きつけられている。しかし、「恋愛」一般には、そんなものはない。
この根無し草の「恋愛」という概念を、当然のものとして受け入れたとき、あなたもまた根無し草になる。根無し草には自分の価値観がないので、噴飯物のふざけたでっちあげを、当然のこととして受け入れるはめになる。このでっちあげのピラミッドの頂点には、「クリスマスイブには彼氏がいて、そいつとデートしなければならない」というテーゼ(通称「イブ彼デート」)が燦然と輝いている。
注意しなければならないのは、このピラミッドの裾野の石は、さほど馬鹿げては見えないということだ。イブ彼デートは笑わずにいるほうが難しいが、「恋愛にはコミュニケーションスキルが必要」というテーゼを批判するには、かなりの批判能力を要する。
では、このピラミッドはなぜ建設されたのか。
この種のピラミッドはいったん建設が始まると、それ自身の矛盾の限界まで突き進む。矛盾の限界がイブ彼デートだ。この建設のメカニズムは資本主義についてよく研究されている。この点において、資本=モテという見立てには説得力がある。
しかし、建設自体についてわかったとしても、まだ疑問は残る。
ピラミッドのネタは、恋愛や貨幣に限らず、根無し草ならなんでもいいのか、それともなにか必要条件があるのか。また、ピラミッド建設の最初のきっかけはなんなのか。
どちらも一般論としては巨大なテーマであり、ここでは到底論じられない。恋愛にかぎっても、最初のきっかけは手に余る。ここでは、必要条件の一部を指摘するだけにとどめたい。
真実を恐れる心――それが人を、イブ彼デート信仰へと導く。
この真実とは、AさんとBさんの関係のことではない。もちろん、ピラミッドの中にある概念(モテる・モテない)でもない。
ピラミッドを建設して覆い隠そうとする真実、それは、誰がどんなことをしてくれても、あなたは孤独だということだ。