William Dementによれば、英国の平均的な生徒たちは、ヘイスティングスの戦いは1066年、ということのほかに、歴史についてほとんど何も覚えていないという。
日本の平均的な生徒たちは、コロンブスのアメリカ大陸到達は1492年、ということのほかに、世界史についてほとんど何も覚えていないだろう(それさえも大いに怪しいが)。
私としては、コロンブスよりも、1492年のほうを覚えていてほしい。
1492年には、コロンブスだけでなく、多くの重要な出来事があった。たとえばスペインのユダヤ人追放が1492年である。
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私が21歳のとき、前国王陛下が亡くなられ、国王抽選会が開かれた。
私は、父が市役所に勤めていたので、王位継承者会に入らされていた。継承者になって初めての抽選会だった。
もし国王に当選したら、どうするか。
抽選会前の継承者なら誰でもそうするように、私もそのことを考えて、決めていた。『即位する』。それが私のひそかな決心だった。
私はそのとき、どうにも行き詰まっていた。
高校を出て、まんが家のアシスタントになってから3年。まんが家としての私は、3年前から、ほとんど前進していなかった。いや、5年前からかもしれなかった。
才能がないとは思わなかった。それだけは一度も思ったことがない(マスコミが私をけなすときには、いつも決まって『傲慢』と書く)。運がないとも、あまり思わなかった。ただ、それを見逃しているとは思った。
『現在、米国には15世紀のフィレンツェの人口の約1000倍の人々が住んでいる。1000人のレオナルド、1000人のミケランジェロが私たちのなかにいるはずだ。DNAがすべてを支配するなら、今日私たちは毎日のように素晴らしい芸術に驚嘆しているはずではないか。現実はそうではない。レオナルドがレオナルドになるには、生まれながらの能力以上の何かが必要なのだ。1450年のフィレンツェが必要なのだ』。
こんな風にはっきり考えていたわけではないけれど、行動すべきだということは、はっきり感じていた。ただ、どうすればいいのかが、わからなかった。私のフィレンツェがどこにあるのか、見当もつかなかった。
もし国王になれば、そこがフィレンツェではないにせよ、少なくともこの行き詰まりからは逃れられる。
虫のいい願いだ。けれど、きっとたくさんの人々が、こういうことを漠然と思っている。でなければ、千葉人があんなに国王抽選会に熱中するはずがない。
国王抽選会は、朝の10時から始まり、王位を引き受ける当選者が現れるまで続く。国王財団理事長、労働党第一書記、木更津新報主筆、この三人がサイコロを振って、当選者番号を決める。当選した継承者のところにTVカメラが駆け付け、王位を引き受けるかどうかをインタビューする。イエスならその場で当選者が即位する。返答がノー、あるいは当選者が登録した住所にいなければ、またサイコロを振る。
私は、千葉人なら誰もがそうするように、国王抽選会の様子を自宅のTVで見ていた。
ひとりめ、ふたりめ、三人目と、即位を断ってゆく。みな中高年の男性だった。四人目はお年寄りの女性で、画面に映った瞬間、もしかして、と思った。前国王陛下もその前も、70歳近いお年寄りだったのだ。が、次の瞬間、きっぱりと即位を断る声が流れた。
当選者が辞退するごとに、緊張が走る。次は自分の番かもしれない――私も、そう思っていた。
五人目は若い女性だった。ノー。六人目は中年の男性。ノー。
午後3時を回り、TVのリポーターが交代した。新しいリポーターの、緊張した声が流れる、
『私の継承者番号は6465-1143です。もし私が当選したら、当選者探しがゼロ秒で済んでしまいますね。ちなみに、もし私が当選したら、ぜひ王位を引き受けさせていただきます』
三人が同時にサイコロを振り、地区番号が決まる。地区番号5426、千葉市三石区三石1~3丁目。その地区を紹介する映像とアナウンスが入り、それに続いて、ヘリからの中継映像が流れる。戦前に宅地として開発され、いまでは高級住宅街になっているとのこと。
『この地区の着陸ポイントは、三石小学校の校庭ですね。いま、安全を確認中とのことです。あっ、もうすぐ着陸するようです』
陸軍の輸送ヘリが着陸し、TV中継をするワンボックスカーが中から出てくる。
『いま、1丁目町内会の会長さんと電話がつながっています。もしもし?』
そうこうしているうちに準備が整い、個人番号(下四桁)のサイコロを振るときがきた。
4221。
中継車が走り出し、街路を縫って目的地へと向かう。新しい当選者の住所へ。
当選者の家は、お屋敷だった。緑の芝生の西洋庭園が、TVにちらっと映る。
TVを見ていて、待ち構えていたのだろう、すぐに当選者が玄関先に現れる。私と同じくらいの歳の女の子だった。室内着だろうか、高そうなカーディガンを着ている。
当選者はマイクを向けられ、あのアニメ声で、第一声を発した。
『国民の皆様、はじめまして。私は波多野陸子と申します。
ただいまより、国王を務めさせていただきます。
皆様、私とともに、誇り高い千葉を目指しましょう』
私は、なんとなく納得のいかない思いで、陛下のお顔を見つめていた。
そのときはっきりそう考えていたわけではないが、納得のいかない思いというのは、つまるところ――どうして私でないのだろう。
マスコミの報道ラッシュの第一波は、陸子陛下の珍しい生い立ちに注目したものだった。当時のTVのワイドショー流に、陛下の生い立ちをたどってみよう。
千葉市子供の家の前に捨てられていた、女の赤ん坊。生みの母親からのメッセージはなにもなかった。名前さえ。『陸子』という名前は、千葉市の福祉課長補佐がつけたという。
その子供の家の職員が当時、インタビューに答えている。
『見た目はいいし、頭もいいしで、それだけでも目立つ子でしたが、それ以上になんといっても、口の達者な子でした。それも、人を丸めこむんじゃなくて、敵と味方を作る子でした。
あの子が9歳かそこらのころでしたね。いじめっ子のグループが、あの子に意地悪したことがありまして。それであの子が、いじめっ子らを罵ったんです。
子供の家では、まあ、ほかの子を罵るなんてのは、よくあることです。子供ですから、本当に容赦がありませんよ。罵る相手の親兄弟や友達まで、徹底的に悪く言うんです。聞いてるとひどいもんですが、そのほうが暴力沙汰にはなりにくいんで、私らはほっときます。
でも、あの子の場合には、いけなかったですね。子供がいくら罵詈雑言を並べ立てたって、5分も続きやしないもんですが、あの子は味方を集めて盾にして、1時間くらいやっていました。私はちょっと聞いただけですが、まあ、大人だって頭にくるような、レトリックというんでしょうかね。いままでほかに聞いたことがないような、すさまじいものでしたね。
そうしたら、家の子がみんな影響されて、いじめっ子らの側とあの子の側の二手に分かれてしまって、いまにも殺し合いを始めそうな雰囲気になってしまって。いじめっ子らに謝らせて、その場を収めたんですが、あとあとまで尾を引いて、結局あの子が波多野さんに引き取られるまで、続きましたね』
このインタビューは生放送で、そのあと二度と放送されなかったが、私は覚えている。その顔と声は、トラブルメーカーへの憎しみを、はっきりと浮かべていた。
子供の家での生活のあとは、全国小学生弁論コンクール優勝のエピソードが続く。
陸子陛下は10歳のとき、まだ小学5年生でありながら、全国小学生弁論コンクールに優勝なさった。コンクールのテーマは、「正義と平和」。その弁論の様子がビデオに記録されており、何度もTVに流れたが、いつも冒頭の『耐えることは恥ではありません』という一言までしか放送されなかった。護衛官になったあとで、その理由がわかった。国王は、政治的な信念のようなものは、必要なときまで出さずにおくのだ。政治家は自分の主張によって支持を集めるが、国王はただ国王でありさえすればいい。政治的な信念は邪魔になることもある。
全国小学生弁論コンクールの優勝がきっかけで、陛下は11歳のとき波多野夫妻の子になり、子供の家から引き取られた。
波多野夫妻は当時、千葉で9番目の資産を誇る資産家だった。恵まれた環境のもと陛下は、中学と高校で優秀な成績を修められ、千大法学部に進学なさった。
陛下のご学友としてマスコミに登場した人はみな、この時代に陛下のお側にいた人だ。陛下の驚異的な記憶力と読書量、人をそらさない魅力、細やかな気配りを、申し合わせたように称えていた。
そんなとき私は、護衛官募集の広告を目にした。
表向きの動機はあった。まんがを描くうえで、実物の千葉国王を見ておくことは、いい経験になる。陸子陛下のドラマに満ちた人生にも、興味があった。陸子陛下のいわゆるアニメ声には賛否両論あったが、私は好きだった。そしてこれは文句なしに誰もが認めていた、愛らしい美貌も。
もうひとつ、誰にも言えない動機があった。
当選などありえない国王抽選会、採用などありえない(はずだった)護衛官募集。どちらでも私は、私のフィレンツェを探していた。
いま、ここは、私のフィレンツェなのだろうか。わからない。けれど私はいつのまにか、そんなことを思わないようになっていた。
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