リップグロスについて。
ここ数年で急速に普及したので、目では覚えていても、名前を知らないかたも多いだろう。これは唇を飾る化粧品の一種で、ゼリーのような光沢と透明感のある仕上がり(通称「ぷるぷる感」)が得られる。
光の反射が命なので、表面を別のものでカバーすることができず、したがって落ちやすい。
*
「私の服の匂いを、かいでるときみたいに。
――そう。そういう顔」
いま私には、陛下のお考えが、手に取るようにわかる。
陛下は、平石緋沙子を引き合いに出して、私が陛下にとって大切な存在であることを強調なさった。ご自分の孤独と不安を、卑下することなく主張なさった。私の言い訳がましい態度を叱って、私から言い訳を奪っておしまいになった。
私は陛下を大切に思い、陛下も私をそう思っておられる。だから私は、陛下の孤独と不安を、和らげてさしあげたい。その思いをかきたてられた矢先に、なにも気づかないふりをすることはできない。
さきほどお叱りを受けたばかりなのに、言い訳を口にすることはできない。このことが公になれば私は辞任を免れない、などと言えば言い訳になる。
そしていま、私の異常な行動を思い出させることで、陛下は私を動かそうとなさっている。
動かされるべきではない。私は陛下のお側で、護衛官としてお仕えしたい。たとえそれが、陛下のお心にぴったりと沿うことではなくても。
そう願った瞬間に、悟った。いま、ここが、私のフィレンツェなのだと。
イタリア・ルネサンスは数十年で終わり、そのあと西洋絵画はもう二度と、その高みに達することがなかった。なぜなのか。なぜ天才はどこにも行く必要がないのか。橋本美園の声がこだまする。『人は否応もなく変わっていくものです。立ち止まっていることなどできません』。
さようなら、私のフィレンツェ。
私は陛下を抱きしめた。甘い匂い。あたたかい。手が震える。
体中が思うように動かない。陛下の唇は、すぐそこに目に見えているのに、うまくたどりつけない。闇の中ではいずりまわるようにして求め、探りあてる。
ふと自分の興奮が恐ろしくなって、顔をそらし、陛下の肩の向こうへ逃げた。
「ひかるちゃんから、キスしてくれたね」
「はい」
「ひかるちゃんて、自分からするタイプじゃないでしょ? ごめんね、無理させちゃって」
「いえ、素敵でした」
「ひかるちゃんからしてもらうのが、夢だったの。ひかるちゃんみたいな完全に受けの子が攻めるのって、すごいツボなんだ」
陛下はいつものペースをまったく崩しておられないようだった。
「お気に召していただけましたか。無上の幸いでございます」
「顔、見せて?」
私は間近に陛下と見つめあった。
「私のリップグロス、ちょっとついてる」
そうおっしゃって陛下は、私の下唇のふちを、指でなぞり、つまんで――愛撫なさった。
体のなかで、背中の下や下腹のあたりで、衝動が高まる。けれど、なんの衝動なのか。
「私は不調法なもので、陸子さまをどのように喜ばせてさしあげたものか存じません。おかしなことをするかと思いますが、そのときにはどうぞお咎めください」
自分のジャケットのボタンに手をかけると、
「ひかるちゃん、いま脱ぐのはやばいよ? 遠野さんが戻ってくる」
「……はい」
「おあずけのできないひかるちゃんには、つらいかな? がまんできる?」
「……はい」
ふと、右手の指先が、陛下の腕に触れていることに気づく。私の指は、その腕をたどって、陛下の手にたどりつき、その指に絡みついた。
「えらいなー。我慢できないって言ったら、おりこうさんにできるように、しつけてあげたのに」
「実を申しますと、無様なところをお目にかけずにすんだもので、胸をなでおろしております」
「あーっ、かわいくなーい」
陛下は、絡まっている私の指に、爪をお立てになった。ふたたび衝動の波が押し上げる。
「ひかるちゃんは、おすまししてるときよりも、さかってるときのほうが、かわいいの。我慢してるとさらにかわいさアップ」
「はい……」
「でも我慢してるだけじゃ、だめだよね。
匂いをかぐだけなら、脱がなくてもできるよ?」
「はい」
私は、匂いをかぐのにいい位置を探した。が、
「せっかくのお心遣いですが、お顔の化粧品の匂いが気になって楽しめません」
陛下は香水のたぐいをいっさい用いられないが、化粧品には、かすかながら香りがついている。さきほどお召し替えになったばかりのブラウスも、匂いを吸い込んで弱めている。
「うーん――」
陛下は悩ましげに口をへの字になさり、それから意を決したように視線をまっすぐになさって、
「ひかるちゃん、パンツの匂いは好きじゃないんだ?」
「……考えたこともございません」
護衛官は、外出先でのお召し替えをお手伝いすることがある。私が陛下のぬくもりや残り香を楽しんだのも、そういうときだった。が、下着までお召し替えになることはなく、当然その残り香も楽しんだことがない。
が、いま想像するかぎりでは、ワンピースやブラウスの残り香を楽しむことにくらべると、それはあまりにも冒涜的に思われる。
「やっぱり引いてるー。
でもね、ひかるちゃん。私とエッチするときは、私のおまんこなめるんだよ?」
……。
…………。
………………。
「――努力いたします」
「考えたことなかったでしょ? 完全に受けだもんね、ひかるちゃんて。
でも、そういう私も、考えたことがないのでした!」
陛下は明るくお笑いになり、
「ひかるちゃんがスカートだったら、パンツをとりかえっこするんだけどなー」
「素敵なお考えですが、このあと晩餐会のためにお召し替えがございますので、遠野さんに気づかれます」
「あーあ、お仕事モードに戻っちゃった」
陛下は席を立たれて、向かい側のソファにお座りになった。
「我慢してるひかるちゃんはかわいいけど、お仕事モードのひかるちゃんは、素敵だよ」
「お褒めにあずかり光栄です」
「でも」
と、陛下は唇のそばに指をあてられて、
「人のグロスがついてると、まぬけだね」
私はあわててトイレに立った。その背後で陛下が、
「……って、私もついてるかな? やばいやばい」
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