病院を退院した。
旅行でも、病院でも、はたまた監獄でも、日常から離れるのは面白い。監獄や病院には、面白いではすまないことが待ち受けているわけだが、とりあえず今は面白いことだけを見よう。
人生観が変わった、とまではいかなくても、思うところ、感じた点は色々ある。
まず、ナースの衣装に飽き飽きした。
美しいし、好きだが、もういい。一生分たっぷり見た。「巫女ナースやシスターナースが現実にいてもいい、いや、いてほしい」と本気で思った(いまでも思っている)。個室に1日1万円は出せないが、巫女ナースやシスターナースになら、ありうる。
入院していると、美しいものを目にする機会が少ない。美に飢える。これはなによりも辛い。身体がいうことをきかないとか、給食がまずいとか、辛いことをあげればきりがないが、ほとんどのことは耐えられる。だが、美しいものを見られないのは、本当に、耐えがたい。それで病院内でほとんど唯一の美しいもの、つまりナースを見るわけだが、それだけを見ているので、飽きる。
(いま自分で書いていて気づいたが、上の文中の「美しいもの」は、「美しい女性」と書き換えたほうがよさそうだ。絵画や茶道具や風景には用はない)
その裏返しとして、街をゆく女性の美しい衣装に、見とれるようになった。
こんなに美しいものを、漠然と見過ごしていたのか――どうにもこうにも、目を離すのが難しい。やばい人である。
さらに、その結果、売買春についての考えが変わった。
以前は、売買春など、別の惑星のことだと思っていた。売買春の何がどうなろうと、私には関係のないことだ、と。だが今では、無関係とは言っていられない。
いったい日本のGDPの何パーセントが広義の売買春なのだろう。調べても数字が出てこないところをみると、世界に誇れる値ではないらしい。売買春に流れる金のうちかなりの割合は、売春者本人の懐に入る。この金は、本人の身を飾るために使われる割合が、かなり高い。しかもこの金の分配は、美しい女性に厚く、そうでない女性に薄く、というやりかたでなされる。もし、こうした金の流れがなかったら、私の人生はどれだけ味気ないものになっただろうか。
わかりやすく言うと――電車の中で、美しい女性を見かけて感動したら、実はその人は売れっ子のキャバ嬢で、そのとき着ていた服も、キャバクラの稼ぎがないとなかなか買えないような代物だったとしら?
美は、交換価値や尺度ではなく使用価値であり、絶対的なものだ。抗生物質が素晴らしいように、ディオールのAラインは素晴らしい。「誰も感染症の特効薬なんか持ってないから」という理由では、感染症の患者を慰めることはできない。同様に、「誰も美しい服なんか持ってないから」などという言い訳は成り立たない。
そんなわけで今の私は、売買春に否定的な見解を抱くことができない。人生観が変わったと、言えば言えるだろう。