萌えについて。
「愛」という言葉はどうも高飛車だ。「純愛」くらいまでいって、ようやく親しみがわいてくるが、それでもまだお高くとまっている。
その点、「萌え」はいい。その安っぽさがいい。
安っぽく言わなければ、真実にならない。そういう気持ちが、人間にはある。
*
陛下はドラマを求めておられる――それが橋本美園の言い分だった。
「陸子さまは、うちの子に手を出してないの。着せるものに凝って、若いの揃えて、きれいどころばっかり12人もいるのに」
それでは、美園さんの目の前にいる人物のことは、どうお考えでしょう――そんな質問がしたくなった。
「平石さん以外は中学生ではありませんからね」
「どうして中学生なんだと思う?」
「それは、なぜ陛下は同性愛なのか、と訊ねるのと同じことではないでしょうか」
「陸子さまは中学生でないと立たない――いやこれは物の喩え。とにかく、そういうかただと思う?」
「……いいえ」
「うちの子は、不純な動機で来た子も多いの。国王の愛人になってみたい、っていうのが。でもみんな討ち死にしてる」
身から出た錆とはいえ、陛下は大変な目に遭われているらしい。
「選り好みしておられるのでは」
「そんなかただと思う?」
「……それほどでもないでしょうね」
「好みはおありだけれど、控え目でプライドが高くて上品な人、くらいでしょう。でもそんなの、うちの子は半分以上がそう。
じゃあ、どうして、いままでのうちの子だとダメで、平石さんならいいのか」
平石緋沙子との特別な関係は、醜聞になり、ドラマになるから――それが橋本美園の言い分だった。
「女中頭としては、手をこまねいてはいられない、というわけですね」
女中頭は、公邸内における非公式な人間関係に責任がある。
「いいえ」
あっさりと橋本美園は答えた。
「この程度のことは、平石さんを雇ったときから了解が取れてるの。ほどほどに悪さをするのも、国王の仕事のうち、ってこと。
問題は、私の感情。
陸子さまのお相手は、ひかるさんでなきゃ嫌」
私は、先日の彼女の言葉を投げ返す。
「『萌え』ですか」
にこやかにかわいらしく、橋本美園は答える、
「なめんなよ」
「……なにを、でしょう」
「萌えを。
ひかるさんのために今の仕事と旦那を捨てられるか、って言われたら、無理。だけど、ひかるさん萌えのためなら、できる気がする。この怖さ、わかる?」
「よくわかりません」
「愛と正義の怖さは知ってる?」
「少しは」
どちらも、人をのっぴきならないところに追いやってしまう力だ。
愛の大きさは比較することができない。だから聖書の羊飼いは、迷子になった一匹の羊を追って、他の99匹の羊を置き去りにしてしまう。
正義は永遠に変わることがなく、棚上げにすることもできない。だから聖書のヨブは、神の気まぐれによる試練に耐えつづける。
「萌えって、愛と正義のことだからね。怖い怖い」
「……そう言われると、わからないでもありません」
「ひかるさんはさっき、萌えをなめてた。なめんなよ、ってこと。
――で、陸子さまとキスしたご感想は?」
予想していたので、驚きもない。
「カマをかけないでください」
「ずいぶん芸のないとぼけかたするじゃない」
「では、凝ってみましょう。
身に覚えのないことですが、美園さんがそうおっしゃるのですから、事実なんでしょう。だとすると、どうやら私は二重人格のようです。感想は、もうひとりの私に聞いてください」
「へー。そういうことにしときましょうか。
もうひとりのひかるさんに、アドバイス。
キスしてくれたから大丈夫、なんて思ってないでしょうね? 逆。危険地帯に踏み込んだ。ドラマの舞台にひっぱりあげられちゃった。
舞台に立ってるのが、陸子さまと平石さんだけなら、あんまり盛り上がらない。二人とも失うものがない。二人がどうなっても、ひかるさんは護衛官をやめないでしょ? 陛下は国王をやめない。平石さんが公邸のお務めをやめても、いい経験だった、で済んじゃう。
ひかるさんが舞台に上がったおかげで、陸子さまはひかるさんを失う危険を背負った。これでこそ、ドラマってもんよ。
この設定から、どういう筋書きになると、一番ドラマチックだと思う?」
まんが家くずれの意地がある。私は真剣に考えた。
考えて、気づいた。
陛下はドラマを求めておられる。橋本美園の言い分は正しい。最終面接のときの、陛下のお言葉――『ひかるちゃんの言うとおりだね。そういうこと想像すると、気持ちいいよ』。
「まず、平石さんが陛下に殺意を抱いて、刃物で刺そうとする。その身代わりに私が刺される。私は平石さんをかばって、犯行をなかったことにする。そのせいで手当てが遅れて死ぬ――といったあたりでしょうか」
「ナルシストだね。
ひかるさんがそんなんじゃ、こりゃ、なるようにしかならないかな」
橋本美園はあきれ声で言った。けれど、その顔は笑っていた。これはこれで萌えているらしい。
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