2006年02月17日

アーサー・ゴールデン『さゆり』

 先ごろハリウッドで映画化され、しかも中国人が主役を演じたという、愉快ないわくのあるアメリカ製花柳小説である。
 まず言っておこう。面白い。さすがはアメリカ人、少コミもどきの俗手が連発する。花柳小説にありがちな、安っぽい高級感がまるでない。考証面でも、芸妓の経済生活をしっかり押さえているところがいい。前借金による芸娼妓契約があった時代には、花柳街での金は果てしなく重かった。翻訳がまた素晴らしい。正確さは知らないが、綿密で美しい。
 これで十分に褒めたと思う。
 私は、滅びた人々のために書かなければならない。女郎・娼妓のために。
 文庫版127ページから引用する。
 (娼妓を指して)「着物や髪飾りは芸者のようなものでしたけれど、帯だけは背ではなくて腹のほうで結んでいるのでした。へんな結び方で、見たこともないと思っていましたが、じつはこれが娼妓の目印になるのです。夜っぴて帯をといたり結んだりしなくてはいけないとしたら、背中で結ぶのは手間がかかってたまりません」
 これだけの労作をものした著者にしては、ずいぶん簡単なところで事実誤認をしたものだと思う。
 そもそも帯は前で結ぶものだった。後ろになったのは近世からだ。かつての女郎・娼妓が廃れた前帯をやめなかったのは、現在の芸者が廃れた白塗り・和服をやめないのと同じこと、つまり、滅びつつある業界の通例である。戦後、芸者がホステスに生態的地位を奪われたように、近世には、女郎が芸者に生態的地位を奪われていった。
 さらに、芸妓と娼妓の関係からいって、これは罪のない単純な事実誤認とはいいがたい。
 芸者は女郎を否定することで発生した。芸者的世界観では、性行為がきわめて重視される。「性行為を売らない」という点が芸者のアイデンティティの中核であり、この点で女郎を否定し、差別化を図る。この差別化というのはマーティング的なものにとどまらず、芸者自身が、女郎に対して差別意識を抱く、ということでもある。
 芸者的世界観では、女郎が売るのはなんといっても性行為であり、ほかのものはおまけにすぎない。「イメージを売る」という見方はまったくなされず、そのかわりに「芸」と「性行為」が重視される。もし、芸や性行為でなくイメージを売るのだとしたら、芸者も女郎も五十歩百歩ということになってしまう。芸者的世界観はこんな結論をけっして認めない。
 主人公は一流の芸者として、「不見転の芸者は偽物」と切って捨てるが、それをいうなら、一日に複数の客と性行為をするような位の低い娼妓も偽物だ。娼妓の前帯を指して、「夜っぴて帯をといたり結んだり」と結びつけるのは、不見転の芸者をみて「芸者は体を売る商売」と断じるのと同じだ。
 そろそろ、おわかりだろうか。この事実誤認は無邪気なものではない。芸者的世界観から発した、悪意のある差別的な誤解だ。
 この誤解をする主人公が、人格的に問題のあるチンピラ芸者なら、まだ理解できる。だが主人公は一流の芸者だ。娼妓への差別意識が予備知識なしに読み取れるような描写も見当たらない。予備知識のない読者なら、この誤解を額面どおりに受け取り、娼妓への差別を受け継ぐ危険は大きい。
 娼妓への差別が広まったところで、もう娼妓は滅びているから、誰も被害を受けない。だが、存在を許されないものはみな私の友である。だから、滅びた人々も、まぎれもなく私の友である。

Posted by hajime at 2006年02月17日 08:07
Comments

うーん、面白い。いつもながら読ませますねぇ。

Posted by: hiro at 2006年02月18日 20:43