親族・相続法にはお国柄が出る。カトリック諸国は離婚に厳しい。ソ連は非嫡出子と嫡出子を区別しない。
日本の戦前の親族・相続法では、家制度が前面に押し出されていて、大きな特徴をなしていた。戦前の民法では、「家督相続」や「分家」が法律行為だった。これは戦後に改正された。とはいえ、戸籍の編成や非嫡出子の相続などに、家制度の名残りが見える。
生物学上の血縁にこだわるのも特徴で、これは「特別養子縁組」という奇妙な制度に結実している。万世一系の手前があるからだろうか。
*
食後すぐに、私は緋沙子にメールを打った。『今日、帰りにうちによっていって』。
それからタクシーを呼び、駅前のデパートに出かけて、和菓子を買った。陛下がおやつに召し上がるような、とまではいかないが、とりあえず見栄えはする。
午後九時、緋沙子からメールの返事があり、それからすぐに本人がやってきた。
「おみやげもご用意できませんでしたが――」
「いいって、そんなしゃちほこばったお招きじゃないでしょうが。いまお茶いれるね。今日は和菓子なんだよ」
あらかじめ居間に座卓と座布団を用意しておいた。お茶をいれ、お菓子を出す。細工の凝った和菓子を、緋沙子はしげしげと眺めていた。それからぽつりと、
「通販ですか」
私が通販ばかりしている、という話を昨日したばかりだった。私は笑いながら、
「駅前のデパートの地下」
「わざわざ買ってきてくださったんですね。ありがとうございます」
「ひさちゃんだって昨日、わざわざ買ってきてくれたんでしょう?」
「私のは通り道ですから。
私をお招きくださるときは、当日の午後3時までにご連絡いただければ、お菓子をお持ちします」
「なに言ってんの、それじゃお金が大変でしょう」
「そんなにたくさんお招きくださるんですか。嬉しいです」
まだ手をつけずにいた和菓子を眺めながら、緋沙子は目を細めて微笑んだ。
「あ、えーと、そういう意味もあるんだけど――」
そのまましばらくお菓子の件で話しあい、結局、緋沙子がお菓子を買ってきて、その代金は私が出す、ということになった。
和菓子がなくなったころ、私は二杯目のお茶をいれながら、緋沙子に訊ねた。
「立ち入ったこときくけど――ひさちゃんがイギリスに行くのを助けてくれたのは、誰?」
緋沙子は目を丸くして答えた。いまさらなにを、という驚きだった。
「陸子さまです」
予想どおりだった。
小学生だった緋沙子と接触のあった有力者は誰か。あやうく審判を逃れて鑑別所を出たばかりの緋沙子を、メイドとしてお側仕えにすることができるほど、財団に影響力を振るえる人物は誰か。陛下のほかにありえない。
「帰ってきたら公邸で雇う、っていう約束だったわけね」
「はい」
陛下は私に隠し事をなさらないものと、決めてかかっていた。けっしてそんなかたではないのに。
「ご両親はどうやって説得したの?」
「母は死んでいましたし、父は、私への性的虐待のために親権を停止されました。ほかに引き取り手がなかったので、私は千葉市の子供の家にいました。私は家出して行方不明になったという処理をされたはずです」
千葉市子供の家――陛下が11歳までおられた施設。
「それじゃあ――いまは――」
「陸子さまが用意してくださったマンションで暮らしています」
「ひとりで?」
「はい」
私は、言うべき言葉がみつからなくて、緋沙子を抱きしめた。
抱きしめたまま、どうしていいのか、わからなくなる。離れることができない。どうして、こんなにも、愛しいのだろう。自分がわからない。
「設楽さま――」
「なに?」
「設楽さまは私を哀れんで、こうしてくださっていると思います。でも私は、こうしていると、……欲情を催します」
それで少し正気に返った。いまなら離れられそうな気がする。けれど、言われたとたんに離れるのでは、『想像なんて、私に黙ってすればいいじゃない』と言い放った手前、きまりが悪い。
「別に、いいよ」
「誘って、おられるんですか?」
抱きしめる私の手を、緋沙子の手のひらが包む。
悪い気持ちはしなかった。それどころか――
私は身体を離した。
「そういうわけじゃなくて、その、」
緋沙子は、射るような鋭いまなざしで、言った。
「私で遊ばないでください。哀れんだり、欲情させたり、突き放したり、そういうのは嫌いです」
耳に痛かった。緋沙子をもてあそんだりしないよう、陛下にお願い申し上げたのに、その私がいつのまにか、緋沙子をもてあそんでいる。
「……ごめん」
「わかってくだされば、いいんです。……わかってて、そうしてくださるなら、いいんです」
わかってて――陛下のなさっていることだ。
「今度から、気をつける」
沈黙が落ちた。話題を探す。
両親のことは聞けない。子供の家のことも、楽しい思い出のはずがない。陛下との絆――それがいい。
「陛下に初めてお目見えしたのは、いつ?」
「先月です」
私は驚いて、
「それまで、手紙だけ?」
「主に電子メールでした。お電話も何度か」
ロンドンからも欠かさずメールをやりとりしていたことや、初めてのお目見え、公邸への初出勤などを、緋沙子は目を輝かせながら話した。私との出会いに話が及んで、私は訊ねた。
「私が陛下の内縁の配偶者だ、って吹き込んだのは誰?」
すました顔で緋沙子は、
「それは嘘ですと申し上げたはずです」
「カマかけたんだ?」
「ノーコメントです。それに、もし設楽さまのお答えがイエスでも、私は変わりなく陸子さまにお仕えするつもりでした」
「そうでしょうね」
『陛下を抱いたの』――そう告げたいという衝動が、また襲ってくる。
「……そうだ、設楽さまに嫉妬したこと、思い出しました。
設楽さまは最近、陸子さまに、裸のお姿をご覧いただきましたね。それだけではないと思いますが」
そのタイミングはまるで私の衝動を見抜いたようで、私は自分の頬が青ざめるのを感じた。
「うん」
「嫉妬しました。私はまだ自分の素肌を、あまりご覧いただいていません」
「着たまま、してるんだ」
「はい」
話題を変えようと思った。が、
「服とか汚れない?」
「気を使います」
「陛下も? ひさちゃんの服が汚れないように気をつけてくれてるの?」
「はい。私もそのことをお尋ねしたのですが、そういうところに気を使うのも楽しみのひとつ、とのことです」
どう考えても、聞くべきでないことを聞いている。自分が嫌になってきた。今度は口に出して、
「……話題を変えよう」
すると緋沙子は、まるで予定していたかのように滑らかに、
「このお宅は、護衛官の官舎だと思いますが」
と、まったく別のことを言い出した。
こういうのも如才ないというのだろうか。少し違う気がする。とはいえ、ありがたいのは確かだった。
「そう。便利なんだか不便なんだか」
「護衛官に就任して、ここに引っ越してこられたときは、どんなお気持ちでしたか?」
「そっか、ひさちゃんは引っ越したばっかりだもんね」
初めてのひとり暮らしの話でひとしきり盛り上がり、そのうち新居を訪ねるという約束を交わすと、緋沙子の帰る時間になっていた。
バス停まで送ってゆく。バスが来るまで一緒に待とうとしたけれど、昨日と同じく、緋沙子に強く断られた。
「おやすみなさい」
「おやすみ」
別れの挨拶のあと、ゆこうとして、立ち止まる。緋沙子の視線が、心にひっかかった。
「――どうしたの?」
「設楽さまこそ」
「なんか、気になって。気のせいかな?」
次の瞬間、緋沙子はなんの前置きもなく、それでいて予定していたように滑らかに、核心を突いた。
「今日の設楽さまは、ひとりになるのを恐れていらっしゃるように見えます」
どうして?――緋沙子に尋ねる前に考えてみて、答えはすぐに出てきた。
美園のことから逃れたい。その記憶、未来、感情、意思から、逃れたい。
「……うん」
「もしよろしければ、今晩はお宅に泊めてください」
その申し出に、私はぐらつきながらも、
「恐いっていうのは、なにが恐いのかわかれば、もう恐くないの。ありがとう」
今度はもう振り向かずに家へと歩いていった。美園のことを思いながら。
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