山口貴由というまんが家がいる。代表作は『覚悟のススメ』だろうか。
作品のひとつに、『蛮勇引力』がある。涼やかなメガネ男の主人公が、超管理社会に肉弾戦を挑む物語だ。主人公を助けるのが、性具商・張孔堂の一味である。
『蛮勇引力』の世界は近未来と近世をつなげたような代物なのだが、張孔堂の商う性具は、産業革命前の技術でできている。木製で手彫りの張形などだ。張孔堂の面々はこの製品に、自信と誇りを抱いており、産業革命以降の技術革新をほとんど意に介していないように見える。
合成高分子(ブラスチックと化学繊維)、エレクトロニクス、合成色素、これらはみな産業革命後に現れて、性具の世界を塗り替えた。いま作られている性具のほとんどは、これらの技術なしには、想像することさえも難しい。また、ポルノは過去50年で驚くべき革新を遂げ、性具業界に大きな影響を与えている。間違いなく、性具はこの150年ほどで、華々しく進歩した。それ以前の性具は、懐かしさや微笑を誘う小道具でしかない。
だが、現実の性具商の店頭に立って商品を眺めると、張孔堂の自信には根拠があるように思えてくる。
モノとして魅力のある製品が、ほとんどない。考え抜かれて作られたモノや、高精度で加工されたモノには、必ず独特のオーラがある。性具商の商品には、それがない。こんなものを買う客がいるとしたら、それはモノを見ているのではなく、自分自身の幻想を見ているのだろう。古典的な狂人のクリシェを思い出す――本人は、自分が王様で宮殿に住んでいるつもりだが、実はゴミ溜めに埋もれて生きる乞食だ、という。
技術革新はまだ続いている。ネットは製造者とユーザを近づけ、大きな影響を与えるはずだ。3Dプリンタ(立体物を光で彫り出す装置)はきっと何かすごいものを作り出すだろう。マイクロメカトロニクスは性具の世界を塗り替える可能性がある。張孔堂をも唸らせる製品が当たり前になる日が、いつか来るかもしれない。
だが今日のところは、山口貴由の慧眼に唸る。古典的な狂人のクリシェをそのまま人々に演じさせる超管理社会と戦う勢力として、産業革命前の性具商を持ってくるとは、斬新で適切、素晴らしい着想だ。
*
「お口を大きく開けてくださいませ」
私はそのとおりにした。
私の両腕、手首のそばには、黒い手枷。少し重いほかは、着け心地は悪くない。外側は硬いゴムだけれど、柔らかい内張りがしてある。
「拝見します。……きれいな歯並びでございますね。虫歯も見えません」
美園は、指で歯をひとつずつ押してゆく。
私の首には、首輪。鎖で手枷とつながっている。この鎖は短くて、手が腰に届かない。
「抜けそうな歯や、ぐらついている歯はございませんね?」
「ない」
私の両足、膝のそばには、足枷。足を閉じられないよう、左右の足枷を棒でつないである。
腰には、コルセット。紐で締め上げてある。深く息することも、かがむこともできない。
そして、左手首に手錠。この手錠のもう一方の環は、冷蔵庫のドアの取っ手をつかんでいる。
拘束具に包まれた私自身は、足を開いて椅子に座り、肘掛けに肘を置いている。
「では、こちらをお試しください」
美園は奇妙なボールを差し出した。
大きさは鶏の卵ほど。白いプラスチックでできている。卵の殻のように中空で、ただし、このボールの殻の厚さは数ミリ以上ある。その殻にも、指先くらいの穴がいくつも空いている。
「なにこれ」
「この状態では見慣れないものでございましょう。このようにして用いるものです」
美園は、黒いゴム製のハーネスのようなものを取り出した。そのハーネスについている金属の棒を、ボールの穴に通し、取りつける。
「間接キスはお気になさいますか?」
「いまさら」
「では、失礼します」
美園はそのボールを口にくわえこんだ。ハーネスの両端を、頭の後ろに回す。
見覚えのある道具だった。口枷の一種だ。ボールに穴が空いているから、口で息もできるし、声も出せる。言葉をしゃべることと、口を閉じることはできない。
美園はボールを口から出して、
「詳しくご説明いたしましょうか?」
「いい。早くやって」
ボールをハーネスから外し、目の前に差し出す。私が口を開けると、そこにボールをそっと押し込む。かなり大きく口を開けないと、中に入らない。
弱く噛む。見た目よりは柔らかいプラスチックだった。といっても噛み砕けそうにはない。
「これをはめておりますと、ひとつの歯に力が集中して、噛み合わせが狂うことがございます。はめている時間が短ければ一晩で直りますが、それまでは、お食事の際などに大変気になるものでございます。
ボールを回したり、位置をずらしたりして、ひとつの歯に力が集中しないよう調整なさってください。もしボールの大きさがあわないようでしたら、別のサイズのものをお試しください」
言われるままに、しばらくいじる。口を指差して終わりを告げると、ボールを口に入れたまま、ハーネスに取りつけた。そのハーネスを私の頭に固定する。
「痛いところはございませんか?」
かぶりをふる。
「しゃべれなくて恐い、というお気持ちはございませんか?」
ちょっと考えて、かぶりをふる。
美園は、私の顔を自分の胸に押しつけながら、
「嬉しゅうございます」
と、囁いた。
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