2006年04月07日

1492:34

 森薫の『エマ』が好きだ。19世紀末イギリスが舞台の、本格メイドまんがである。7andy
 『エマ』の主人公(メイド)の雇い主は、主人公の恋の相手(富豪のぼんぼん)と、直接にはつながっていない。主従関係ぬきで、階級の違いだけが、恋の障害になっている。
 ちょっと考えると、主従関係があるほうが手が作りやすいように思える。近親相姦と同じで、権力が絡むほうが面白い。セクハラとの当たりが厳しいが、これくらいなら逃げる手はある。
 が、もうちょっと考えると、主従関係があるとシリアスな話はできないような気がしてくる。あるじのほうはよくても、メイドのほうが『家政婦は見た!』をやってしまうのが避けられない。
 さらにもうちょっと考えると、なにかいい手があるのだろうが、そこまではまだたどりついていない。

 
                         *
 
 この官舎に引っ越してくるまで、私はずっと街中で暮らしてきた。官舎にきて、その静かさに驚いた。聞こえるのは、鳥や虫の声と、風の音、それだけだ。足音も、車の音も、近所の人の声もない。慣れるまでは不気味だった。
 その静かさのおかげで、居間にいても、玄関の物音や声が聞こえる。
 玄関の扉が開き、
 「はい、ご苦労さま」
という美園の声に続いて――二人分の足音が、こちらに近づいてきた。
 私の体格はまるで警護に向かないが、性格はそこまで不向きでもない。この非常事態にあっても、むしろ非常事態だからこそ、私は頭を働かせた。
 美園の声の調子からして、相手はメイドの誰かだ。不意の訪問ではなく、あらかじめ時間を指定して来させたらしい。なら、緋沙子だ。どういうつもりかはわからないが、それ以外の人間を巻き込むとは思えない。
 緋沙子のいまの状態は? 私がこんな目にあっていると、知らされたうえで来ているのか? これから知らされるのか? それによって、話ががらりと変わる。いまの段階では、どちらともいえない。
 私はどうすべきか。じたばたせずにいよう。助けを求めるような顔はしない。恥ずかしそうにもしない。事情をきかれたら、時間をかけて、そもそもの最初から説明する。私の異常な癖のことも、あの写真のことも、話す。
 「ご用をまだうかがっていません」
 廊下から聞こえてくるその声はやはり緋沙子だった。
 「平石さんに見せたいものがあります」
 私は、二人がやってくるほうを見つめていた。
 微笑む美園に続いて、仏頂面の緋沙子が姿を現す。
 目を丸くした緋沙子は、いつになく可愛らしい。私はあまり動揺もせず、緋沙子を見返した。
 「どういうことですか?」
 「ひかるさんに尋ねたほうが、確かなことが聞けるんじゃない?」
 緋沙子は、私に視線を戻した。
 その視線に――私は耐えられなかった。顔をそらし、身体を縮める。恥ずかしさのあまりに。
 期待のこもった視線だった。私にさわれるかもしれない、という期待。美園がしたことをすべてあわせたよりも、その視線のほうが、羞恥心にこたえた。
 緋沙子は素早く動いた。
 そばに寄ると、まず、毛布をかけてくれた。首輪も見えないように、耳のあたりまで覆う。
 次に、口枷を外す。素早く、それでいて、落ち着いた手つきだった。ハーネスを一瞬で外したあとは、私がボールを口から押し出すのを待つ。あわてて引っ張られたりしたら、歯や唇によくない。
 向き合うと、緋沙子はもう、さっきの視線をしていなかった。落ち着いて実務的な、医者のような雰囲気だった。
 口が自由になっても、すぐには言葉が出てこなかった。その沈黙をどう取ったのか、緋沙子は、
 「……私は、ここにいたほうがいいですか? もしお邪魔でしたら、帰ります」
 「いて。帰らないで」
 「服はどうされますか? その前に、手足のこれを外しましょうか」
 そこへ美園が、
 「平石さん、事情を聞くんじゃなかったの?」
 「落ち着いて話ができる状況とは思えません」
 「ひかるさま、いかがです?」
 それで美園の狙いが読めた。
 女中頭が護衛官とこんな関係になったことが、もし財団に知れたら、美園はお側仕えを外される。緋沙子は美園と対立しているので、このことを通報しないはずがない。もし美園が公邸を追われたら、困るのは私だ。あの写真がいつ爆発するかわからない。だから私は、緋沙子を説得するなり、あるいは嘘をつくなりして、緋沙子を黙らせる必要がある。
 黙らせる方法を考えてみて、わかった。嘘をつくほうが、はるかに簡単だ。『私は好きで美園とこうしている』と言えば、緋沙子は黙っているだろう。美園を公邸から追い出しても、私の恨みを買うのでは割にあわない。
 もし説得しようとしたら、伝えるべきことがたくさんあって、しかも話しづらいことばかりだ。あの異常な癖のことはもちろん、美園の悪者ぶりと私の弱腰のことも、どう話したものか悩ましい。
 そして、もし事の全部を話しても、緋沙子が黙っているかどうかは怪しい。
 あの写真のことは、財団がそれなりに対応すれば、なんとかなる。たとえリスクがあるとしても、職権を濫用して恐喝をはたらく女中頭を取り除く、というメリットで正当化できる――と緋沙子は考えるだろう。なぜ私がそうしないのかといえば、あの異常な癖のことを話すのが恥ずかしいのと、美園のことがそれなりに好きだからだ。どちらの理由も、緋沙子にはない。
 嘘をつくほうに、心が傾きかける。
 喉から出かかった瞬間、飲み込む。もし口に出してしまえば、それはもう嘘ではなく、本当にそうなってしまうような気がして。
 美園は私をさらっていくと宣言して、そのとおりに振舞っていたのに、遠ざけるどころか、家にあげてしまった。どうしてだか、自分でもうまく説明できない。ここでもし嘘をついたら、説明がついてしまう。私は美園を求めていた、と。そのうえ緋沙子や陛下が、この嘘を事実と認めてしまったら、もう逆らえない。この嘘が本当なのだと、自分でも信じてしまうだろう。
 唇を奪われたり、拘束具をはめられたりするくらいは、なんでもない。この嘘を信じることに比べたら。
 美園のことが嫌いだからではなく。美園のことを、美園という人として、ほかのどんな好きとも違う好きで、好きだから。
 だとしたら、やはり、説得に頼るわけにはいかない。美園が公邸を追われてしまう。
 嘘をつかずに、緋沙子を黙らせる。そんな方法が――ある。
 私は緋沙子に告げた。
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Posted by hajime at 2006年04月07日 03:07
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