人間には人を愉快にする性質がある。それと同じくらい、不愉快にする性質もある。
生身の人間なら話はこれで終わりだが、小説の登場人物となると、話はもうちょっと続く。
登場人物の不愉快な性質を描くのは難しい。あまりにも難しいので、私はあきらめて、自分ひとりで「こいつはまったく不愉快な奴だ」と思うことにしている。
作品についてはできるだけ言いたくない。作品自身が語らなければ失敗だ。が、これはどうせ語らないことなので、ここで言ってしまおう。
設楽ひかるには、(やはり気が変わったので290字削除)。
愛すべき人々は、愛するのが難しい人々でもある。
*
「抱いて」
緋沙子の、期待のこもった視線を感じたときから、わかっていた。私はあの期待に応えずにはいられない。こうして考えている私の頭も、あの期待にひきずられている。
いまここで緋沙子が私を抱こうとすれば、美園と緋沙子はお互いに、相手を辞めさせる切り札を持つ。そうなれば、どちらも相手を辞めさせることができない。
緋沙子は瞬く間に形相を変えた。医者のような顔が消え失せて、欲情が一面に噴き出す。
「――私の、耳が、おかしくなったみたいです。どうか――」
言葉を繰り返すかわりに私は、身体を伸ばし、唇を差し出した。
緋沙子の手が、肩をつかむ。かすかに震えていた。
くちづける。最初は短く。
「ちょっと、ひかるさん、そりゃないでしょう?」
呆れたように美園が言った。
振り返って緋沙子が言い返す、
「私たちにまざるか、でなければ、お引き取りください。見世物ではありません」
今度は美園が目を丸くする番だった。驚いた顔のまま、回れ右して、居間から出ていった。
美園が出てゆくのを見届けてから、こちらに向き直った緋沙子は、とまどったように、
「もう大丈夫ですけど――続けても、いいんですか?」
「さっきのは、本気じゃなかったの? それはちょっと傷ついたな」
まるで陛下のおっしゃるような軽口が、すらすらと出てくることに、自分でも驚く。
「本気でした。でも、設楽さまの……」
「私が本気じゃないかも、って思った? それも傷つくな」
もう緋沙子はとまどわなかった。くちづけをやりなおす。
唇を離したとき、緋沙子が服を脱ぐかと思って、緊張を少し緩める。けれど違った。喉に、甘噛み。続いて、うなじへ。服を脱がずにするよう、陛下にしつけられている、という話を思い出す。
噛むときに邪魔になったのか、緋沙子が、
「首輪、お好きですか?」
「ひさちゃんは?」
「……わかりません」
その顔は、好きだと言っていた。
「鎖だけ外して」
鎖が外れて、肘をのばすと、腕が長くなったような気がした。緋沙子はその腕をとり、二の腕の内側を、甘噛みする。
「――あの、黙っておられると、不安で……」
陛下はこういうとき、絶えずお声をかけておられるのだろう。けれど私はかける言葉を思いつかず、とっさに、
「ええとね、昔むかしあるところで、」
陛下のお相手をするときに、よく使う手だった。でたらめな昔話をして、移動中などの退屈をお慰めする。いつもの行動パターンが、とっさに出てしまった。
緋沙子は大笑いした。おかしくてたまらず、どうしても止められない、そういう笑いだった。
笑いの発作がおさまると、緋沙子は、笑いすぎてこぼれた涙を拭きながら、
「やっぱり、本気じゃないんでしょう、設楽さま」
「ひかる、って呼んで」
小さく、フン、と鼻を鳴らしたのが聞こえて、
「嫌です」
「自信がないから、もうしたくない?」
「はい。こう見えても繊細なんです」
いったい緋沙子をどこからどう見れば、繊細でないように見えるのだろう。
話しながら緋沙子は、左右の足枷をつなぐ棒を外した。おかげで脚を閉じられるようになる。
「――でも、」
緋沙子の面に、欲情が戻ってくる。私の胸のあたりを見つめながら、
「……設楽さまにご満足いただこうとは思いませんが、私のわがままに、もうしばらく、おつきあい――」
「はやく」
吸い込まれるように緋沙子は私の胸に顔を埋めた。唇で胸の先端を挟み、前歯でこする。
刺激が背中に響く。くすぐったいような感覚で、好きになれそうにない。陛下はこういうのがお好きなのだろうか。
緋沙子のつむじを見て、思い出す。緋沙子に授乳する陛下の図、それに――
「吸って、――」
陛下のあこがれが理解できたような気がした。
「――赤ちゃんみたいに」
緋沙子は顔を離して、ためらった。表情は見えない。
「嫌?」
意を決したように、しゃぶりつく。喉を鳴らす、こくこく、という音を立てて。空想のお乳が、たしかに緋沙子の身体に流れ込んでいるのだと、わかる。
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