2006年04月21日

刑法175条(わいせつ物頒布等)を擁護する

 私のみるところ、憲法以外の法学の世界は、「そもそも論」をかなり軽視する。「そもそもこの法律が制定された目的は~」というような歴史的事実に基づいた議論よりも、「なんとなくこれでいいんじゃない?」というようなフィーリングを大事にする。昔の話よりも、ノリのほうが大切なのだ。そのかわり、現時点での整合性はかなり重視される。「AもBもイマっぽくていいけどさあ、AとBは両立しないよ」というツッコミは深刻に受け止められる。こうしてAとBの対立が始まり、法学教授に暇つぶしや生きがいを提供する。
 こういうフィーリング重視の世界では、権威がものをいう。インディーズブランドがなにを主張しても蟷螂の斧で、有名ブランドがすべてを決める。日本の法学では、東大法学部教授の論文や、裁判所の判決が有名ブランドだ。なかでも最高裁判決の権威は比類なく、これと両立しない説は存在することさえできない。
 というわけで、私の意見など、仮想戦記のようなものだ。筋は通っているかもしれないが、その筋が現実に試されることはありえない。
 ついでにいえば、私自身の信念としては、刑法175条は廃止すべきである。良い悪いという以前に、馬鹿馬鹿しい。こんな法律が存在していること自体、時間と金の無駄だ。

 
 では本題に入ろう。
 まずは保護法益だ。刑法175条の保護法益には、青少年保護を入れないことにする。
 「刑法175条は青少年を保護するためのもの」――この説は、最高裁判決ではノーコメントだし、「関係ねーだろ」とはっきり書いてある高裁判決も出ている。が、どういうわけかこの説を言いたがる弱小ブランドがある。どこかの新興宗教が担いでいるのかもしれない。
 保護法益は、「健全な性道徳の維持」、これ一本でいく。猛烈に馬鹿馬鹿しいと個人的には思うが、判決文には手ごろなお題目だ。
 次に、猥褻性の判断において、文書・図画の内容だけではなく流通の様態も考えに入れる。というより、内容だけで判断しようとするほうが無理だ。どう頑張っても、「俺にはわかる」という基準になってしまう。つまり、反証可能性がない。対して、流通の様態とは人間の行動であり、人間の行動なら反証可能だ。
 さて、ここからがウルトラCだ。
 憲法21条(表現の自由)を、違法性阻却事由として認める。それと同時に、問題となった文書・図画の流通において受け手を公然と選別した場合、その選別に関与した者は、憲法21条の定める保障を放棄したものとする。
 この「保障を放棄」というウルトラCを、正当化することはできるか? インディーズブランド以下の存在である私に言わせれば、十分に可能だ。
 憲法21条が保障するのは、発表の自由だけだろうか。厄介なことを言う人間の口をふさぐかわりに、そいつの声の届くところにいる人間の耳をふさいでも、同じ効果が得られる。憲法21条は、国家に耳をふさがれないことも保障する。知る権利というやつだ。
 憲法は国家を縛るものなので、私人と私人のことには関係ない。「選挙演説したいからお宅の庭を貸してよ」と頼まれても、「この話、あいつには秘密な」という内緒話を広めても、憲法21条とは関係ない。他人の耳をふさぐ行為も、国家がやれば憲法違反だが、私人がやるぶんには憲法とは関係ない。
 とはいえ、である。
 他人の耳を好きなようにふさぐ奴が、自分の口は憲法21条で保障されたいというのは、おかしくないか?――「そりゃ、おかしいな」が答なら、このウルトラCは成立する。
 この「おかしいな」のフィーリングを、どう形にするかが法学だ。「それもおかしいだろ」が入り込まない形にしなければならない。たとえば、コンテンツフィルタリングソフトの開発会社は他人の耳をふさぐのに関与しているが、だからといってこの会社を憲法21条の保障外に置くのはおかしい。こういうおかしさのない形になるよう、ものごとをまとめるわけだ。
 憲法レベルでは、あまり話を詰めても意味がない。具体的な法律を適用するときに、ちょうどいい形になればいい。この場合には、刑法175条・違法性阻却・保障放棄の三段重ねだ。
 この三段重ねは、「それもおかしいだろ」を、どれくらい免れているか? これは一人で考えているだけではなかなかわからないので、ツッコミ待ちをするしかない。有名ブランドがツッコミ待ちをしていると、他の有名ブランドがせっせとツッコんでくれるが、インディーズには誰もかまわないので、ツッコミ待ちはここで打ち切る。
 
 この説が、もし最高裁判決に採用されると、どうなるか?
 一般の人々は、より安全に、自由になる。ブログに好きなことを書き、好きな写真をアップできるようになる。ホスティング業者も、刑法175条をたてにケチをつけたりしなくなるだろう。
 ポルノ産業は、「18禁」のような表示をやめることはないだろう。ポルノ産業はこうした障壁なしには成り立たない。障壁を維持するために、刑法175条でしょっぴかれるリスクを背負うことになるが、そのリスクは現在のものと同じだ。
 (念のために付け加えておくが、現在の判例・実務では、「18禁」のような表示と刑法175条にはなんの関係もない。この表示をしているからといって、検挙を逃れるわけでもなく、受けやすくなるわけでもない)
 ポルノ以外の各種レーティングは、保障放棄のリスクを逃れるため、保護者をサポートするだけの緩やかなものにとどまる。「酒・タバコは二十歳になってから」のような緩やかなレーティングよりも、機械的で水も漏らさぬレーティングのほうが安くつく、という世界はすでに目の前に迫っている。こういう世界にはなにかしら恐るべきものがある。逆説的でトリッキーだが、刑法175条を使うことで、そういう世界が訪れることを阻止できるわけだ。
 非ポルノ産業の表現者には、広大な自由が保障される。この自由のうえに、なにが築かれるか? それはもしかすると、玄鉄絢『少女セクト』2巻(コアマガジン)に書いてあるかもしれない。7andy

Posted by hajime at 2006年04月21日 04:28
Comments