花井愛子という作家のエッセイに、こんなことが書いてあった。
鏡に自分の顔を映して見るとき、人は、無意識に表情を作ってしまう。しかし私の部屋には大きな鏡が置いてあるので、作っていない自分の表情が見えることがある。ブスな顔が映っていると、驚き、気を引き締めることができる――記憶だけで書いているが、たしかこういう内容だった。
表情と同じく姿勢も、作っていない自分の姿を見ることが難しい。
*
私は仕事を終えてすぐ、緋沙子の携帯にメールを出した。仕事の帰りに、うちに寄ってほしい、と。
玄関に現れた緋沙子は、以前と変わりなく見えた。無愛想で、どこか寂しげな。
居間に通して、お茶を出す。陛下のご様子のことを話す。なにも以前と変わらない。
ティーカップのことから、食器の話になり、緋沙子は言った。
「今度、うちに遊びにきてください。食器の通販カタログとか集めておきますから」
「まだ買ってない食器があるの? なに?」
「いえ、買ってないわけじゃないんですけど、……そのへんで適当に買ったのだから、恥ずかしくて」
緋沙子の頬が赤くなっているのに気づく。私はわざと意地悪を言った。
「わかった。通販でよかったら、私が買ってあげる。もらってくれる?」
「あの……」
うろたえる緋沙子は、目を伏せて、身体を小さく左右に揺らしている。けれどすぐに、身体を揺らすのをやめて、私をまっすぐに見つめた。
「買ってくださるのでしたら、嬉しいです。でも私は、設楽さまと一緒にいたいんです」
「今日、うちに来てもらったのも、その話がしたくて、かな」
この展開を予想していたのだろう、緋沙子はすかさず、
「私は設楽さまと一緒にいたいんです。陸子さまだって、わかってくださいます。設楽さまさえよろしければ、陸子さまになにもかも申し上げます」
「まだ申し上げてないの。どうして?」
「それは、設楽さまにもかかわることですし、それに女中頭の件もありますから、その、デリケートな問題です。設楽さまにご相談せずには申し上げられません」
「デリケート、ね。わかってるじゃない。陛下のお側で、あんなことしたわりには」
私は右手を広げてみせた。
「あれは――あれは、陸子さまが、私にとりついてるみたいに――
……前に、お話ししたと思います。陸子さまに、身体の一部を乗っ取られてるみたいな気がする、って。それなんです。
その乗っ取ってる陸子さまが、手を握ってるのを見たら、気持ちいいんだってわかって、それで、……」
「私と一緒にいたいのも、陸子さまのせい?」
「――よくわかりません。でも、もうじき、わかるようになると思います」
「なら、わかるまで、胸にしまっといて。人のせいにするのは、よくないよ」
「帰ります」
緋沙子は即座に席を立ち、出てゆこうとした。
私が立ち上がると、気配を感じたのだろう、足を止める。その背中を、後ろから、抱きしめる。
「私のせいにも、しないでね」
「はい」
「陛下には私から申し上げる。でも、もしお尋ねになったら、事実を申し上げて」
「女中頭のことはどうしますか」
「それも事実を」
どうしてあんな場面ができあがったのか、私は話していないし、緋沙子も尋ねていない。
腕を解くと、緋沙子は向き直り、ぺこりと頭を下げた。
「お邪魔しました」
居間の窓から、夜道をゆく緋沙子を見送る。その歩く姿を見ながら、思う。
彼女はいつも背筋をまっすぐにして、ぴんと胸を張っている。それは、孤独だからだ。背中を丸めると、孤独に押し潰されてしまう。
私は少し猫背だ。お身体の小さい陛下にあわせるために、屈むことが多いせいでもある。けれど、きっと一番の理由は、私が孤独ではないからだ。家族や友人に、それになにより、仕事に恵まれている。
そういえば陛下も、いつも胸を張っておられる。
家族はともかく友人には恵まれたかたのように思えるし、国王の仕事には情熱を傾けておられる。僭越ながら私も精一杯お仕えしている。けれど陛下は、それだけでは埋められない何かを、抱えていらっしゃるようにようにも思える。
国王という重責が、その何かなのかもしれない。けれど。
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