2006年05月22日

クリヴィツキー『スターリン時代』(みすず書房)

 1937年10月、ソ連諜報機関に勤務する一人の将校が、ソ連と決別した。本書の著者、クリヴィツキーである。亡命先のあてもなく、ただスターリンから逃れるための決別だった。
 著者は生活費を得るために本書を書いた。著者の言うことを、アメリカ人のゴーストライターが書いたものらしい。惜しいと思う。もし著者本人が筆を執っていたら、粛清の真っ最中のソ連の雰囲気を、この上なく伝えるものになったはずだ。著者には文才がある。それはゴーストライターを通してもわかる。
 1941年2月、著者は死体で発見された。警察の調書では自殺とされたが、むろん疑わしい。
 
 ところで本書は、「キーロフ暗殺はスターリンの陰謀だ」という説の根拠のひとつである。私が読んだ本はほぼすべて、この説を妥当としていた。
 だが、本家本元たる本書をよく検討すると、この説にはアラが見える。たとえば、キーロフが暗殺された夜、「すでにスターリンとヤゴダの間に不和があるという噂があったが、その夜は、二人の間の公然たる断絶の発端となった。スターリンは、ヤゴダに暗殺者とその仲間を尋問させまいと全力をつくした」(120ページ)とある。これが陰謀だとしたら、「同族殺し」という重大な陰謀であるにもかかわらず、あまりにも雑だ。著者はスターリン陰謀説を強く押し出しているが、事実がそれを裏切っている。これはゴーストライターの功績かもしれない。
 近年の研究でも、キーロフ暗殺は背後関係のない単独犯との説が強まっている。これが正しいとすれば、ドイツ国会議事堂放火事件と同じことが、ソ連でも起こっていたわけだ(これも長らくナチスの陰謀説が唱えられていたが、否定された)。
 ついでに言うと、私はケネディ大統領暗殺についても、背後関係のない単独犯だという説をとっている。根拠はただひとつ――ソ連崩壊後に出てきたソ連の資料によって陰謀説が裏付けられた、という話を聞いたことがないからだ。
 歴史の神はサイコロを振る。ある種の「賢い」人には、けっしてわからないことらしいが。

Posted by hajime at 2006年05月22日 01:01
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