2006年05月23日

1492:43

 暴力について。ジョージ・オーウェル『気の向くままに』(彩流社 7andy)262ページより。
 「私は人々の頭上に爆弾を落とすことよりも、彼らを「フン族」呼ばわりすることの方がより大きな害をもたらすように思う。もし避けることができるならば、誰だって人を殺傷したくないことは明らかだが、単に人を殺すことだけが最大の重大事だとは私には感じられない。われわれはみんな百年以上は生きないのだし、また、たいていは「自然死」と呼ばれる、みじめでぞっとする形で死ぬ。最も悪いことは、平和な生活を不可能にするような行動をとることである。戦争が文明の骨組みを破壊するのは、それがもたらす物理的破壊によってではなく(戦争の結果は、最終的には世界全体の生産能力を増大することにさえなるかもしれない)、また人間の殺戮によってでさえもなく、憎しみと不誠実をはびこらせることになるからである。あなたの敵に銃弾を撃ち込むことによってあなたは敵にもっともひどい害を加えるのではない。そうではなく、敵を憎み、その敵についての嘘を作り出し、その嘘を信じるように子供たちを育てることによって、もっともひどい害を加えるのだ。それにまた、再度の戦争を避けがたくするような不当な講和条件をやかましく要求することによって、いずれ滅び去る一世代の人間に対してだけではなく、人類そのものに打撃を与えているのである。」

 
                            *
 
 平手打ちは初めてだった。けれど陛下の暴力は初めてではない。こづく程度のことはよくなさる。痣になるほどきつく蹴られたこともある。
 思えば陛下は、私などよりもずっと、暴力になじんでおられる。私はいままで、陛下のほかの誰にも、ぶたれたことがない。それどころか、実物の平手打ちを見たことさえない。だから私は、誰かを黙らせたいときに、平手打ちしようと思いつくことはないだろう。
 陛下はいつどこで暴力になじまれたのか。あのお優しそうなご両親が実はそうなのだろうか。けれど、子供の家のほうが、ありそうなことだ。捨て子であられた陛下に与えられた運命。それはいわば、生みのお母様が陛下に与えた、唯一のもの。
 私は落ち着いていると思う。お顔をうかがったかぎりでは、陛下も平静であられる。ただ、どうにも、気まずかった。
 こんなとき陛下はいつも素早くなさる。私のほうが先に気をきかせるべきなのに、いつも陛下は先んじてしまわれる。
 「ごめんね。痛かったよね? ――痛くしたからね」
 「出過ぎたことを申し上げました。お赦しください」
 「でも、ひかるちゃんだって、そうだよね? 痛くするつもりで、言ったんだよね?
 ひかるちゃんの言ったことって、そういうことだよ。
 殴られたら痛いよね。正義とか関係なくて痛いよね。ひかるちゃんの言ったことも、そうだよ。正しいとか間違ってるとか関係なくて痛いの」
 陛下の瞳にはうっすらと涙が浮かんでいた。
 「お赦しください」
 下を向いている私の顔を、陛下は、手のひらで包んで、正面を向かせられた。
 「ひかるちゃんなら、痛くしても、いいよ。
 ケンカ、したことないよね。しよっか。
 ――でも、これも、あとのお楽しみだね」
と、陛下は時計のほうをご覧になった。
 「私がこれ以上ここにおりますと、きりがなさそうです。いまのうちに下がりましょうか」
 「うん、そうして。またあとでね」
 今日は夕方から外出がある。
 私はいったん立ちあがってから、両膝をつき、陛下の御手をとって、申し上げた。
 「お慕い申し上げております、陸子さま」
 「ひかるちゃん、大好きだよ」
 目を見交わす。陛下の視線は、いつになく、弱く陰っているように思えた。
Continue

Posted by hajime at 2006年05月23日 04:12
Comments