2006年06月12日

1492:47

 読者諸氏はどんな紅茶がお好きだろうか。
 私のお勧めは、F&MのBreakfastだ。東京の店頭で買うのは難しく、今では日本橋三越にしか置いていない。昔は新宿京王デパートにもあったのだが。
 これをミルクティーで飲む。牛乳は低温殺菌牛乳だ。スーパーの店頭が高温殺菌牛乳で占められているのを見るたびに、雪印事件は起こるべくして起こったのだと思わされる。

 
                          *
 
 言うまではわからなかった。
 言った瞬間に、わかった。
 私はなにか重大なことを言った。たとえ緋沙子がその重大さをわからなくても、わかっているのが私ひとりだけでも、それは重大なことだった。
 愛の大きさは比較することができない。それがわかっているのに、愛の大きさを比較させようとするのは、いったいどういうことなのか。
 緋沙子は最初、いぶかるように、わずかに目を細めて私の様子をうかがっていた。そしてすぐに、その表情が微笑みに変わる。
 「パパとママ、どっちが好き? ――ってことですか?」
 どうにも答えにくい質問だった。緋沙子は母親と死に別れ、父親から性的虐待を受けて、子供の家(孤児院)に送られた。そんな人の口から出る『パパとママ』には、冗談にならない重い響きがある。
 それで私はごまかした。
 「ひさちゃん、やっと笑った」
 言われると、緋沙子は笑顔をひっこめて、仏頂面になろうとした。
 「私を口説くつもりなら、笑ってるほうがいいんじゃない?」
 すると今度は、さっきの無防備な笑顔のかわりに、気取った笑顔を出してきた。
 「設楽さま、はぐらかしたって、わかります」
 私はなにか重大なことを言った。それは緋沙子にもわかったようだった。
 「私は、陛下に申し上げちゃった。ひさちゃんは、私の一番大切な人ではありません、って」
 「おかげで私はクビです」
 その口ぶりは、緋沙子の歩く姿を連想させた。背筋をまっすぐにして、ぴんと胸を張った姿。孤独に押し潰されないように、戦う人の姿。
 
 比較することのできない愛の大きさを、比較させようとするのは。『パパとママ、どっちが好き?』と子供に訊ねるのは。
 愛されなくても悲しまず、愛されても怯まない、その徴。
 つまり、愛していることの証。
 
 愛の大きさの大小を、口にのぼせるのは。『一番大切な人ではありません』と私が言ったのは。
 嘘をついている徴。
 誰かを愛していないことを、愛の小ささにすりかえて、言い訳しているか。
 あるいは。誰かを愛していることを、小さく見せかけて、ごまかそうとしているか。
 『一番大切な人ではありません』と私が言ったのは、『陛下を愛するように愛しています』という意味。
 
 「ごめん」
 緋沙子は微笑んだ。今度は、気取ってもいなければ、無防備でもない。弓がたわんでいるように、楽しい秘密を知っている人のように、なにかの力を秘めて輝いている。
 「ね、いま、調子が出てきました――」
 そのとき、火にかけていたやかんが鳴りだした。私はキッチンにゆき、紅茶をいれる。居間に戻り、さっきよりは少し離れて座って、
 「なんだっけ、調子が出てきたの?」
 「……もういいです」
 「ごめん」
 「私は謝りません」
 「そりゃ、ひさちゃんは悪いことしてないもの」
 「いいえ。設楽さまに辛い思いをさせてます。悪いことです。
 でも謝りません。
 これからも、設楽さまに辛い思いをさせるつもりです」
 ゆっくりと、なにかを確かめるように、緋沙子は言った。
 声は静かだったけれど、心はたかぶっているのだろう。頬には赤みがさし、目は潤んでいる。
 美しい。
 あまりに美しくて、私は目をつぶった。
 「――名前で呼んで。ひかる、って」
 「ひかるさま、――」
 緋沙子が身体を近づける気配がした。
 抱きしめられる、と思っていた。けれど緋沙子は私の手をとると、その甲に軽くくちづけた。
 目を開けると、緋沙子は私の手をとったまま、落ち着かなさそうにしていた。私の視線に気づくと、その手も離して、
 「……お茶は、まだしばらく時間がかかるんですね」
 「やっぱり今日は、調子が出ない?」
 「はい。泣き落としなんて、カッコ悪すぎて、できません」
 「それもそうか」
 「でも、手ぶらで帰るのも嫌ですから、これからずっと、『ひかるさま』ってお呼びします」
 そのあとは、以前と同じように、おしゃべりを楽しんだ。
 このあいだの食器の話の続きをした。この週末に、緋沙子の家を訪ねる約束をした。
 公邸の噂話をした。大沢さんは、お召し物にゴスロリを入れようと何度も企んでは、そのたびに陛下に跳ねつけられているとか。
 陛下のことを話した。
 『ひさちゃんはひかるちゃんが好きで、でもひかるちゃんは気がつかない、っていうのが理想だったんだけど』
 『ひさちゃんがいなくなって、落ち込んでるひかるちゃんが、見たいんだー』
 そんなことをおっしゃったという。
 今日は私の帰りが遅かったので、話せる時間はあまりなかった。緋沙子をバス停まで送ってゆき、バスが来るまで、ずっと話していた。
 「またね」
 「はい。土曜日、楽しみにしてますから」
 明後日にまた会うのに、私は、バスの窓に向かって手を振り、緋沙子も振り返した。
 自分の気持ちが、痛いほどわかる。私は緋沙子が好きだ。
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Posted by hajime at 2006年06月12日 00:55
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