2006年08月04日

1492:58

 私の子供のころ、最高の美少女といえば後藤久美子だった。緋沙子のたたずまいは彼女によるところが大きい。
 ブラウン管の向こうの彼女は、いつも居心地の悪さを感じているように見えた。自分の身に起きていることを、あまり納得していないように見えた。彼女はあるとき、「自分の姉は自分より美人だ」と言った――という話を聞いたことがある。これが事実かどうかは知らない。けれど、いかにも彼女らしい話だと感じた。
 後藤久美子のあのたたずまいは、日本文化にどれくらいの影響を残したのだろう。わからない。おそらく測る方法もない。ただ、私の脳裏には、あの姿がいまも焼きついている。

 
                        *
 
 土曜日の朝、私は友達に電話をかけた。石藤由美、ペンネームは後藤チコ。私がまんが家を目指していたとき、よくアシスタントに行った相手だった。まんが家らしからぬ早起きで、朝に電話をかけても大丈夫だ。
 用件は、車を借りること。
 「みっちゃんは車とか運転しないんじゃなかったの? 事故るとやばい商売だから、っていつも言ってたでしょうが」
 私のペンネームは『ミフネ』だったので、まんがを通じて知りあった友達は、私のことを『みっちゃん』や『ミッフィー』と呼ぶ。
 「クビになったの」
 「あー。……んじゃ、これからセクハラ訴訟?」
 「なんで」
 「陸子たんに迫られたんと違うの?」
 どういうわけか知らないが、まんがを通じて知りあった友達はみな、陛下のことを『陸子たん』と呼ぶ。
 「話すと長いんだけど、一言でいうと、陛下の愛人を奪っちゃった」
 「あー。……その愛人、男? 女?」
 「女」
 「陸子たんがそっちって、マジだったんだ。
 女か。いい女なんだろうね。みっちゃんを落とすとはね。
 あー。国王に当選したいなあ。いい男、ゲットだぜ」
 「継承者だったっけ?」
 王位継承者会は年に1万円の会費がかかる。私のように家族が公務員なので入らされた場合はともかく、給料のもらえない不安定な仕事では、なかなか継承者になろうとは思えない。
 「去年からね」
 「連載持つと景気がいいね」
 「貯めててもどうかなって世界だし。
 車を借りるってことは、そのいい女をのっけてドライブだ。どこ行くの」
 「買い物」
 「つきあうよ。ノロケ話、聞いてやる」
 
                       *
 
 昨日の夜、緋沙子と話し合って、決めた。世の中には、私が陛下から緋沙子を奪ったという筋書きで説明しよう、と。
 けれど、由美はすぐに見破った。
 食器を買った帰りに寄ったレストランで、由美は言った。
 「誠実で裏表のない女って、うざいよね。私が正直にしてるんだからお前も正直にしろ、みたいなプレッシャー感じるんだ。
 みっちゃん、あんたのこと。
 ひさちゃんはなんでまたこんな四面四角な女がいいの」
 「いけませんか」
 「説得力がない。自分じゃどう思う?」
 「世の中にはいろんな相性があります」
 答えた緋沙子は、高慢、というしかない態度だった。恋愛やセックスのことを鼻にかけているのは明白だった。由美の外見は、どう見ても、色事には向かない。
 「あー。みっちゃん、この子、処女?」
 緋沙子は気色ばんで由美を睨んだ。姿は大人びて見えても、中身はまだそれほどでもないということを思い出させられる。噛みつくように緋沙子は、
 「ひかるじゃなくて私に直接訊いてください」
 「いや、しょぼいこと言ってごまかそうとするからさ、なんなんだろうと思った。
 どう見ても逆なんだわ。
 ひさちゃんがみっちゃんを奪ったみたいに見える」
 緋沙子がまずいことを口走る前に割り込んで、
 「そんなのどっちでもいいんじゃない?」
 「あー。みっちゃんがわかってるんなら、いいか。
 そうそう、言い忘れてたけど、――」
 由美は重々しく言った。
 「――私は処女だ」
 『そんなの見ればわかります』くらいのことを言うかもしれないと一瞬恐れたが、さすがの緋沙子もそれは言わなかった。
 横目で表情をうかがう。口で言わなくても、目で言っているのではないかと思って。杞憂だった。緋沙子は、高慢というよりも、憂鬱そうだった。
 
 緋沙子の暮らすマンションの駐車場で、由美と別れた。
 「デートの邪魔して悪かったね。ほんとに車、いらないの?」
 しばらく車を貸そうと由美は言ってくれたが、私は断った。
 「置いとく場所がなさそうだしね」
 来客用の駐車スペースもあることはあるが、駐車場の管理人の話だと、一晩以上は置けないという。
 「そう。
 いつまで千葉にいる?」
 まるで天気のことを訊くような調子だった。
 「そういうの、まだ決めてない。出るとしたら、日本じゃ意味なさそうだから…… 就労ビザがおりるまでかな」
 「わりとすぐだね。行くときは成田まで送らせてよ。んじゃ」
 由美は車を発進させた。
 振り向くと、緋沙子は硬い表情をしていた。どうやらまったく考えていなかったらしい。
 「――就労ビザって、なんの話?」
 「まだ決めたわけじゃないよ。ほとぼりが冷めるまで、ロシアに高飛びしようかなって」
 緋沙子の住むマンションは、木更津でおそらく一番の高級マンションだった。ロビーには受付があり、廊下は絨毯敷きで、各階のエレベーターホールには花が飾ってある。家賃はどのくらいだろう。私がもらっていた給与では足りないかもしれない。
 いったん部屋に荷物を置いて、外に出る。ろくなデートスポットもない街だけれど、並んで歩ける道があればそれでよかった。
 「陛下に比べたら全然だけど、私の顔もちょっとは売れてるし。ひさちゃんもTVに出たし、美人だから目立つし。どこに住むにしても、度胸がいるよ。
 ――それに、仕事がね。
 日本で同じ仕事は、ちょっとね。国内で個人警護の仕事があるとしたら江戸川のあたりでしょう。私が警護したら、そのせいでかえって危険になりかねない。
 ロシアの大都市ならどこでも仕事があるみたい。警護部の人が言ってたんだけど、日本語とロシア語ができる人なら、犬でも猫でもいいって」
 「まんがは? またアシスタントすればいいじゃない。さっきの人とか、きっと使ってくれるよ」
 『アシスタントで月にいくらになると思う?』――反射的に言いそうになった。
 緋沙子のせいにするのはとても楽だけれど、それは楽なだけだ。
 「したくない。自分がまんがを描くためじゃないと、できない」
 「描かないの?」
 私は恐そうな声音を使って、
 「私が描くときは、ひさちゃんだって止められない。いつそうなるかわからないよ。覚悟しといて」
 「うん」
 緋沙子は納得したようだった。けれど、憂鬱そうだった。
 
 その散歩は結局、近所のアイスクリーム屋さんを経由して、スーパーでの買い物に変わった。
 「今年の6月だったかな。絶対来い、オムライス作れ、って言われてね」
 私は少しは料理ができたので、アシスタントに行くと食事を作らされた。私も別に料理自慢ではないのに、どういうわけか私のアシスタント先には、まったく料理のできない人ばかりが集まっていた。聞くところによれば世の中には、料理のできる美人ばかりの仕事場もあるらしい。けれど私にはそんな仕事は回ってこなかった。
 護衛官になってからも、食事を作るためにときどき呼び出されていた。締切前の修羅場でわけがわからなくなると、おかしなことが始まるものだ。
 そんな修羅場のおかしな行動を話して、笑いあう。
 と、緋沙子が私の腰に腕を回し、身体に触れた。
 私はちょっと驚いて、緋沙子の顔を見る。緋沙子はいままで、腕をとることもしなかった。
 「――くっつきすぎですよね」
 離れようとしたのを、こちらから腕をからめる。
 「敬語」
 「あ」
 緋沙子はきまり悪そうに唇をぎゅっと閉じた。それから、憂鬱そうな顔になった。
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Posted by hajime at 2006年08月04日 23:25
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