私の子供のころ、最高の美少女といえば後藤久美子だった。緋沙子のたたずまいは彼女によるところが大きい。
ブラウン管の向こうの彼女は、いつも居心地の悪さを感じているように見えた。自分の身に起きていることを、あまり納得していないように見えた。彼女はあるとき、「自分の姉は自分より美人だ」と言った――という話を聞いたことがある。これが事実かどうかは知らない。けれど、いかにも彼女らしい話だと感じた。
後藤久美子のあのたたずまいは、日本文化にどれくらいの影響を残したのだろう。わからない。おそらく測る方法もない。ただ、私の脳裏には、あの姿がいまも焼きついている。
*
土曜日の朝、私は友達に電話をかけた。石藤由美、ペンネームは後藤チコ。私がまんが家を目指していたとき、よくアシスタントに行った相手だった。まんが家らしからぬ早起きで、朝に電話をかけても大丈夫だ。
用件は、車を借りること。
「みっちゃんは車とか運転しないんじゃなかったの? 事故るとやばい商売だから、っていつも言ってたでしょうが」
私のペンネームは『ミフネ』だったので、まんがを通じて知りあった友達は、私のことを『みっちゃん』や『ミッフィー』と呼ぶ。
「クビになったの」
「あー。……んじゃ、これからセクハラ訴訟?」
「なんで」
「陸子たんに迫られたんと違うの?」
どういうわけか知らないが、まんがを通じて知りあった友達はみな、陛下のことを『陸子たん』と呼ぶ。
「話すと長いんだけど、一言でいうと、陛下の愛人を奪っちゃった」
「あー。……その愛人、男? 女?」
「女」
「陸子たんがそっちって、マジだったんだ。
女か。いい女なんだろうね。みっちゃんを落とすとはね。
あー。国王に当選したいなあ。いい男、ゲットだぜ」
「継承者だったっけ?」
王位継承者会は年に1万円の会費がかかる。私のように家族が公務員なので入らされた場合はともかく、給料のもらえない不安定な仕事では、なかなか継承者になろうとは思えない。
「去年からね」
「連載持つと景気がいいね」
「貯めててもどうかなって世界だし。
車を借りるってことは、そのいい女をのっけてドライブだ。どこ行くの」
「買い物」
「つきあうよ。ノロケ話、聞いてやる」
*
昨日の夜、緋沙子と話し合って、決めた。世の中には、私が陛下から緋沙子を奪ったという筋書きで説明しよう、と。
けれど、由美はすぐに見破った。
食器を買った帰りに寄ったレストランで、由美は言った。
「誠実で裏表のない女って、うざいよね。私が正直にしてるんだからお前も正直にしろ、みたいなプレッシャー感じるんだ。
みっちゃん、あんたのこと。
ひさちゃんはなんでまたこんな四面四角な女がいいの」
「いけませんか」
「説得力がない。自分じゃどう思う?」
「世の中にはいろんな相性があります」
答えた緋沙子は、高慢、というしかない態度だった。恋愛やセックスのことを鼻にかけているのは明白だった。由美の外見は、どう見ても、色事には向かない。
「あー。みっちゃん、この子、処女?」
緋沙子は気色ばんで由美を睨んだ。姿は大人びて見えても、中身はまだそれほどでもないということを思い出させられる。噛みつくように緋沙子は、
「ひかるじゃなくて私に直接訊いてください」
「いや、しょぼいこと言ってごまかそうとするからさ、なんなんだろうと思った。
どう見ても逆なんだわ。
ひさちゃんがみっちゃんを奪ったみたいに見える」
緋沙子がまずいことを口走る前に割り込んで、
「そんなのどっちでもいいんじゃない?」
「あー。みっちゃんがわかってるんなら、いいか。
そうそう、言い忘れてたけど、――」
由美は重々しく言った。
「――私は処女だ」
『そんなの見ればわかります』くらいのことを言うかもしれないと一瞬恐れたが、さすがの緋沙子もそれは言わなかった。
横目で表情をうかがう。口で言わなくても、目で言っているのではないかと思って。杞憂だった。緋沙子は、高慢というよりも、憂鬱そうだった。
緋沙子の暮らすマンションの駐車場で、由美と別れた。
「デートの邪魔して悪かったね。ほんとに車、いらないの?」
しばらく車を貸そうと由美は言ってくれたが、私は断った。
「置いとく場所がなさそうだしね」
来客用の駐車スペースもあることはあるが、駐車場の管理人の話だと、一晩以上は置けないという。
「そう。
いつまで千葉にいる?」
まるで天気のことを訊くような調子だった。
「そういうの、まだ決めてない。出るとしたら、日本じゃ意味なさそうだから…… 就労ビザがおりるまでかな」
「わりとすぐだね。行くときは成田まで送らせてよ。んじゃ」
由美は車を発進させた。
振り向くと、緋沙子は硬い表情をしていた。どうやらまったく考えていなかったらしい。
「――就労ビザって、なんの話?」
「まだ決めたわけじゃないよ。ほとぼりが冷めるまで、ロシアに高飛びしようかなって」
緋沙子の住むマンションは、木更津でおそらく一番の高級マンションだった。ロビーには受付があり、廊下は絨毯敷きで、各階のエレベーターホールには花が飾ってある。家賃はどのくらいだろう。私がもらっていた給与では足りないかもしれない。
いったん部屋に荷物を置いて、外に出る。ろくなデートスポットもない街だけれど、並んで歩ける道があればそれでよかった。
「陛下に比べたら全然だけど、私の顔もちょっとは売れてるし。ひさちゃんもTVに出たし、美人だから目立つし。どこに住むにしても、度胸がいるよ。
――それに、仕事がね。
日本で同じ仕事は、ちょっとね。国内で個人警護の仕事があるとしたら江戸川のあたりでしょう。私が警護したら、そのせいでかえって危険になりかねない。
ロシアの大都市ならどこでも仕事があるみたい。警護部の人が言ってたんだけど、日本語とロシア語ができる人なら、犬でも猫でもいいって」
「まんがは? またアシスタントすればいいじゃない。さっきの人とか、きっと使ってくれるよ」
『アシスタントで月にいくらになると思う?』――反射的に言いそうになった。
緋沙子のせいにするのはとても楽だけれど、それは楽なだけだ。
「したくない。自分がまんがを描くためじゃないと、できない」
「描かないの?」
私は恐そうな声音を使って、
「私が描くときは、ひさちゃんだって止められない。いつそうなるかわからないよ。覚悟しといて」
「うん」
緋沙子は納得したようだった。けれど、憂鬱そうだった。
その散歩は結局、近所のアイスクリーム屋さんを経由して、スーパーでの買い物に変わった。
「今年の6月だったかな。絶対来い、オムライス作れ、って言われてね」
私は少しは料理ができたので、アシスタントに行くと食事を作らされた。私も別に料理自慢ではないのに、どういうわけか私のアシスタント先には、まったく料理のできない人ばかりが集まっていた。聞くところによれば世の中には、料理のできる美人ばかりの仕事場もあるらしい。けれど私にはそんな仕事は回ってこなかった。
護衛官になってからも、食事を作るためにときどき呼び出されていた。締切前の修羅場でわけがわからなくなると、おかしなことが始まるものだ。
そんな修羅場のおかしな行動を話して、笑いあう。
と、緋沙子が私の腰に腕を回し、身体に触れた。
私はちょっと驚いて、緋沙子の顔を見る。緋沙子はいままで、腕をとることもしなかった。
「――くっつきすぎですよね」
離れようとしたのを、こちらから腕をからめる。
「敬語」
「あ」
緋沙子はきまり悪そうに唇をぎゅっと閉じた。それから、憂鬱そうな顔になった。
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