2006年08月09日

1492:59

 「まだだ、まだ終わらんよ! 」と陸子たんが言ったから6月17日はサラダ記念日
 
 というわけで終わらない。

 
                        *
 
 緋沙子は公邸での仕事があり、学校があり、しかもひとり暮らしだった。家が散らかるのはしかたない。
 夕食の支度をしながら、家じゅうを掃除した。掃除道具は本格的なのが揃っていて、勉強になった。そのかわり台所のほうは、あまりいただけなかった。食器よりはキッチンツールを買ってくるべきだった。いろんな家や仕事場の台所を見てきたけれど、砂糖がない台所はこれが初めてだった。いったいどんな料理を作っていたのだろう。
 食後の片付けが終わると、TVの前でごろごろした。冷房を切り、窓を開け、Tシャツとショーツだけになる。秋の生ぬるい夜風が気持ちいい。
 けれど緋沙子は部屋着を脱がない。ゆったりした麻のパンツに、ノースリーブのニットを着たままだ。
 緋沙子は私の視線に気づいて、
 「……ん?」
 「そんなの着てて暑くないの?」
 すると緋沙子はなぜか、まるで言い訳するかのように身構えて、
 「脱いだら有難味がなくなるじゃない」
 私はちょっとした遊びを思いついた。なにも見ずに記憶だけで緋沙子のヌードを描いてみせよう。私の一番の特技、ミケランジェロごっこだ。
 (少年時代のミケランジェロはあるとき、「お前が絵描きだというなら、この壁になにか描いてみせろ」と挑まれて、ただちに完璧な人体を描いてみせたという)
 紙と鉛筆を探しかけて、思い当たる。そういえば私はまだ緋沙子の肌を見たことがない。
 「そっか。冷房つけよう」
と、窓を閉めようとすると、
 「いらない。汗かいておいたほうがいいんでしょ」
 その返事が、今度もまた、身構えるような調子だった。
 私はTVを消した。
 「ちょっと暑くしようか」
 私はソファに座り、緋沙子を膝に乗せた。緋沙子の額に手をあててみる。平熱だ。けれど私はわざと、
 「ほら、熱くなってきた」
 「それ『あつい』の字が違う」
 「責任、感じてるんだね」
 「――え?」
 「今日のひさちゃんは、しょっちゅう暗い顔してた。
 私を頼ってこんなことになって、後悔してるんじゃないか――って思ってたけど、それだけじゃないでしょう。
 私に期待させなきゃとか、喜ばせなきゃとか、そういうことも考えてたでしょう」
 ちょっと卑怯な聞き方だった。もし『そんなことない』と答えれば、後悔しているかのように聞こえる。
 「それは――そうです」
 「敬語」
 緋沙子はうなずいた。
 「それは嬉しいよ。
 でも、ひさちゃんに一番してほしいのは、それじゃない。
 ひさちゃんには、好き勝手なことしてほしい。私のご機嫌を取るばっかりじゃなくて。それは嬉しいんだけど、ときどきでいい。
 陛下はたぶん、そういうのがお嫌いなんだと思う。生まれてからずっと、ご自分がそうなさってきたかただから」
 なんの力も策略もない幼い子供として愛され、庇護され、わがままを言うこと――おそらくはそれが陛下の望まれることだった。けれど陛下ご自身はもう幼い子供ではないので、いわば身代わりとして、緋沙子を求められた。
 極端な体験をなさった陛下は、ご存じでない。もしかすると頭では理解しておられるかもしれない。けれど心の底は変えられない。
 どんなに家族や友達に恵まれていても、子供はみな、大人のご機嫌を取ることを知っている。陸子陛下の前に出て、顔色をうかがわずにいられる子供はいない。
 緋沙子の顔は見えない。けれど気配でわかる。泣いている。
 私はティッシュを取って渡した。緋沙子は早口に言う、
 「なんだか私このごろ泣いてばっかり。こんなの嫌なんだけど」
 「いまのはウソ泣きじゃないんだ」
 緋沙子はうなずいた。
 「いまからもういっぺん、陛下に泣きついてみる? 一緒に行ってあげる」
 「行かない。行きたくない。ひかるが欲しい」
 早口に言うと、緋沙子は向きを変えて、しがみつくように私を抱きしめた。かすかに震えている。
 震えがおさまると、私のTシャツを脱がせて、身体に触れはじめた。秋の夜長にふさわしい、気の長いやりかたで。陛下とはちがって、口はおしゃべりには使わない。それでちょっと安心した。もし私がしゃべったら、きっと場違いで興ざめなことを連発してしまう。
 頃合をみて、
 「やっぱり着たままのほうが落ち着く?」
 緋沙子はすぐに手早く脱いだ。
 いくらか胸があるだけの、肉のない肌だった。初めて目にするその肌に、気後れする。抜き身の刃を突きつけられたような思いがする。この肌に触れる以上は、じゃれあっているだけとか、遊んでいるだけとか、そういう言い訳がきかないような気がする。陛下が緋沙子とは着衣のままでなさったのも、もしかすると同じような理由かもしれない。
 私の視線を、緋沙子は気にとめないようだった。脱ぎ終えると、すぐにまた私を触りはじめる。そうしていないと息ができない、とでもいうかのように。
 ふと緋沙子が口を休めて、言った。
 「ひかるは、お漏らしとか好きなの?」
 やれやれだった。
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Posted by hajime at 2006年08月09日 22:29
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