「まだだ、まだ終わらんよ! 」と陸子たんが言ったから6月17日はサラダ記念日
というわけで終わらない。
*
緋沙子は公邸での仕事があり、学校があり、しかもひとり暮らしだった。家が散らかるのはしかたない。
夕食の支度をしながら、家じゅうを掃除した。掃除道具は本格的なのが揃っていて、勉強になった。そのかわり台所のほうは、あまりいただけなかった。食器よりはキッチンツールを買ってくるべきだった。いろんな家や仕事場の台所を見てきたけれど、砂糖がない台所はこれが初めてだった。いったいどんな料理を作っていたのだろう。
食後の片付けが終わると、TVの前でごろごろした。冷房を切り、窓を開け、Tシャツとショーツだけになる。秋の生ぬるい夜風が気持ちいい。
けれど緋沙子は部屋着を脱がない。ゆったりした麻のパンツに、ノースリーブのニットを着たままだ。
緋沙子は私の視線に気づいて、
「……ん?」
「そんなの着てて暑くないの?」
すると緋沙子はなぜか、まるで言い訳するかのように身構えて、
「脱いだら有難味がなくなるじゃない」
私はちょっとした遊びを思いついた。なにも見ずに記憶だけで緋沙子のヌードを描いてみせよう。私の一番の特技、ミケランジェロごっこだ。
(少年時代のミケランジェロはあるとき、「お前が絵描きだというなら、この壁になにか描いてみせろ」と挑まれて、ただちに完璧な人体を描いてみせたという)
紙と鉛筆を探しかけて、思い当たる。そういえば私はまだ緋沙子の肌を見たことがない。
「そっか。冷房つけよう」
と、窓を閉めようとすると、
「いらない。汗かいておいたほうがいいんでしょ」
その返事が、今度もまた、身構えるような調子だった。
私はTVを消した。
「ちょっと暑くしようか」
私はソファに座り、緋沙子を膝に乗せた。緋沙子の額に手をあててみる。平熱だ。けれど私はわざと、
「ほら、熱くなってきた」
「それ『あつい』の字が違う」
「責任、感じてるんだね」
「――え?」
「今日のひさちゃんは、しょっちゅう暗い顔してた。
私を頼ってこんなことになって、後悔してるんじゃないか――って思ってたけど、それだけじゃないでしょう。
私に期待させなきゃとか、喜ばせなきゃとか、そういうことも考えてたでしょう」
ちょっと卑怯な聞き方だった。もし『そんなことない』と答えれば、後悔しているかのように聞こえる。
「それは――そうです」
「敬語」
緋沙子はうなずいた。
「それは嬉しいよ。
でも、ひさちゃんに一番してほしいのは、それじゃない。
ひさちゃんには、好き勝手なことしてほしい。私のご機嫌を取るばっかりじゃなくて。それは嬉しいんだけど、ときどきでいい。
陛下はたぶん、そういうのがお嫌いなんだと思う。生まれてからずっと、ご自分がそうなさってきたかただから」
なんの力も策略もない幼い子供として愛され、庇護され、わがままを言うこと――おそらくはそれが陛下の望まれることだった。けれど陛下ご自身はもう幼い子供ではないので、いわば身代わりとして、緋沙子を求められた。
極端な体験をなさった陛下は、ご存じでない。もしかすると頭では理解しておられるかもしれない。けれど心の底は変えられない。
どんなに家族や友達に恵まれていても、子供はみな、大人のご機嫌を取ることを知っている。陸子陛下の前に出て、顔色をうかがわずにいられる子供はいない。
緋沙子の顔は見えない。けれど気配でわかる。泣いている。
私はティッシュを取って渡した。緋沙子は早口に言う、
「なんだか私このごろ泣いてばっかり。こんなの嫌なんだけど」
「いまのはウソ泣きじゃないんだ」
緋沙子はうなずいた。
「いまからもういっぺん、陛下に泣きついてみる? 一緒に行ってあげる」
「行かない。行きたくない。ひかるが欲しい」
早口に言うと、緋沙子は向きを変えて、しがみつくように私を抱きしめた。かすかに震えている。
震えがおさまると、私のTシャツを脱がせて、身体に触れはじめた。秋の夜長にふさわしい、気の長いやりかたで。陛下とはちがって、口はおしゃべりには使わない。それでちょっと安心した。もし私がしゃべったら、きっと場違いで興ざめなことを連発してしまう。
頃合をみて、
「やっぱり着たままのほうが落ち着く?」
緋沙子はすぐに手早く脱いだ。
いくらか胸があるだけの、肉のない肌だった。初めて目にするその肌に、気後れする。抜き身の刃を突きつけられたような思いがする。この肌に触れる以上は、じゃれあっているだけとか、遊んでいるだけとか、そういう言い訳がきかないような気がする。陛下が緋沙子とは着衣のままでなさったのも、もしかすると同じような理由かもしれない。
私の視線を、緋沙子は気にとめないようだった。脱ぎ終えると、すぐにまた私を触りはじめる。そうしていないと息ができない、とでもいうかのように。
ふと緋沙子が口を休めて、言った。
「ひかるは、お漏らしとか好きなの?」
やれやれだった。
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