絵の世界には「デッサン」という評価基準がある。
これが正確にはなにを意味する言葉なのか、いまだに知らない。しかし、70歳の元美術教師から26歳のダメ人間まで、みな同じ「デッサン」という言葉を使っている。
私なりに推測したところによると、どうやらこれは美大の入学試験の科目のことらしい。入学試験では多少なりとも客観的な評価基準が必要になるので、そのためにデッサンという評価基準が作られたらしい。
美大志望の高校生や浪人生なら、デッサンという評価基準を気にするのは当然だ。就活中の大学生が「SPI」という評価基準を気にするのと同じだ。
職場での仕事はSPIでは測れない。わかりきったことだ。だがどういうわけか絵の世界には、美大志望でもないのに、デッサンという評価基準にしがみつく人がいる。
これが元美術教師なら話はわかる。仕事の相手が美大志望者だったから、と説明がつく。美大入試のために絵を描いた、という美大卒でも話はわかる。ほかの評価基準を知らないのだろう。しかしそれでは説明のつかない人々がいる。こういう人を仮に「デッサン厨」と呼ぼう。
デッサンという科目自体が、なにか本質的にデッサン厨を生み出す性質を備えているのだろうか? 賭博は本質的に賭博中毒者を生み出す性質を備えているが、それと同じような本質的ななにかが、デッサンにはあるのか? 違う。デッサンという科目自体の問題ではない。この問題は、いうなれば「評価基準の退廃」という問題だ。評価基準をめぐる状況が、デッサン厨を生み出している。
相対主義的にいえば、以下の三つの評価基準のあいだに優劣はない。
・デッサン
・オークションでの落札価格
・私
もちろんそんな相対主義は大嘘で、一番優れた評価基準は私なのだが、デッサン厨にはそれがわからない。
デッサン厨は、評価基準をまともに評価することができない。彼らがデッサンという評価基準を高く評価するのは、要するに、それが使いやすいからだ。具体的にいえば、即時性と客観性が高く、経時変化がない。なにしろ入学試験のためのものだから、使いやすいのも当然だ。
だが、評価基準がその使いやすさで評価されるのだとしたら、つまるところそれは評価のための評価でしかない。芸術のための芸術ならぬ、評価のための評価、それがデッサン厨という現象だ。
こうしてみると、デッサン厨という現象が、非常に一般性の高いものだとわかる。たとえばTVの視聴率がそうだ。ウェブサイトのページビュー数(PV)もそうだ。いわゆる内閣支持率は政界ではあまり評価されていないが、これは政界の健全さのあかしだ。
そして、評価のための評価をもっとも引き起こしやすい評価基準、それはもちろん、金だ。
あらゆるデッサン厨的な現象を退け、私という評価基準を高く掲げてゆきたい。