2006年08月29日

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 参考文献その2。オデュッセイア関係のものを。
ホメロス『オデュッセイア』上下(岩波文庫)
フィンリー『オデュッセウスの世界』(岩波文庫)
エーベルハルト・ツァンガー『甦るトロイア戦争』(大修館書店)
 現代人の目からは、ホメロスはあまり面白いものではない。少なくとも翻訳では、雑学として以外、読む価値はない。
 ホメロスの時代から今日に至るまでのあいだに、物語の火力は桁違いに増大した。
 恋愛という概念は、戦争における火薬のように、物語の様相を変えた。フランス革命の自由・平等・友愛は、「大きな物語」となって人間を作り出した。BL的・百合的なものは、いまだに呼び名さえ定まらない新しいものだが、人類の未来はここにある。
 物語の魅力のかなりの部分は、こうした火力の絶対量によって決まってしまう。短いエピソードなら少ない火力でも飽和攻撃ができるが、長い物語では明白な差がつく。フランス革命より前に書かれた長い物語は、多少の傑作でも、今日のライトノベルの凡作に敵わない。ただ古拙な味わいがあるだけだ。
 (ただし、物語でないもの、つまり嘘でないものは別である。人間の生活と思考は常に面白い)
 なお作中では常識として書かれていないが、オデュッセウスは「トロイの木馬」を考案したとされる。

 
                        *
 
 マニキュアを塗るときには、しゃべってはいけない。手元が狂うし、息でマニキュアが曇る。
 私は、緋沙子の足の爪に、ペディキュアを塗ろうとしていた。
 爪の甘皮は丁寧にとりのけた。ベースコートは完全に乾いた。ここまでが長かった。これからいよいよカラーを塗る。一番のお楽しみだ。
 緋沙子は安楽椅子に身をあずけ、足を私に任せて、TVのニュース番組を見ていた。
 ちょうど、護衛官訴訟の地裁判決を報じているところだった。最初からわかりきった判決だった。護衛官法は違憲無効。浦安条約は、違憲になる部分のみ無効。それ以外の判決では、浦安条約のせいで一部の併合作業に手をつけられない。今でも千葉には、国防軍、内務省、大蔵省、裁判所、つまり立法府以外の国家機能の中枢がそのまま存続している。
 私はすでにインターネットで詳しく知っていたので、TVの言うことにはあまり関心がなかった。陛下のお姿が見られるかもしれないが、緋沙子の前では、陛下に関心のあるようなそぶりをあまり見せたくない。
 「これって、イタカ、だね」
 なんのことかわからずに、目顔で緋沙子に訊ねる。
 緋沙子は美しく育った。化粧のない、バスローブを羽織っただけの姿でも、目にするのが苦しい。あまりに美の力が強すぎて、緋沙子がどんな人間で、私がどんな人間か、見失ってしまいそうになる。
 「ホメロスのオデュッセイア」
 やっと思い出した。オデュッセイア。文献として現存する物語のなかでは、ギリシャ文明で二番目に古い。ギリシャ文明最古の物語、イリアスの続編。
 「オデュッセウスはイタカの王だった。けれどオデュッセウスはある日、トロイア戦争に行くために、イタカを離れる。戦争は10年続いた。戦争が終わったあとも、神々のきまぐれで、さらに10年のあいだ地中海をさまよった。あわせて20年」
 イリアスでもオデュッセイアでも、ギリシャ神話の神々が活躍する。神々は、宴会と色事と争いに明け暮れ、人間を操ってさまざまなことをさせる。トロイア戦争も、オデュッセウスの彷徨も、神々のしわざだ。
 「オデュッセウスがやっとイタカに帰りつくと、故郷はめちゃくちゃになっていた。
 オデュッセウスがいないのをいいことにつけあがった貴族たちが、我が物顔で王宮に居座って、オデュッセウスの財産で飲み食いしていた。王妃のペネロペーは敬われるどころか、王宮に居座る貴族たちに言い寄られていた。ペネロペーは操を守るために、ひたすら時間を稼いで、オデュッセウスの帰りを待っていた」
 オデュッセウスは勇猛なだけでなく、狡猾でもあった。長く故郷を空けていた自分が危うい立場にあることを予想していた。トロイア戦争の総大将アガメムノンは、故郷に戻ったとき殺された。アガメムノンの妻は夫の帰りを待たず再婚していた。
 「オデュッセウスは乞食に変装して王宮に潜り込み、様子を探ったあと、王宮に居座る貴族たちを不意打ちして皆殺しにしてしまう。
 あとは、ペネロペーと抱き合って、めでたしめでたし」
 私はペディキュアを塗り終わり、その場を離れた。教養のあるところを見せたくなって、言う。
 「ホメロスの時代には、ギリシャはどん底から抜け出したばかりだったの。
 紀元前1200年くらいまでギリシャには、ミケーネ文明っていう文明があった。戦争でこの文明が滅びて、ギリシャは貧しく野蛮になった。ホメロスのころには、貧しくなる前のギリシャがどんな風だったか、すっかり忘れられてた。ホメロスが描いてる世界は、ミケーネ文明とは似ても似つかない。
 でも、たぶん、昔のギリシャは今よりずっと素晴らしかった、ってことだけは覚えてた。
 だからオデュッセイアのラストには、『昔の素晴らしい世の中がずっと続いてほしかった』っていう嘆きがこめられてる。ペネロペーは操を守り通して、オデュッセウスは戻ってきて、悪者の貴族は退治されて、イタカは元通りになる――かなわなかった願いがこめられてるの。
 本当ならペネロペーはさっさと再婚してるはず。だから物語の中では、すごく頑張って、オデュッセウスを待ちつづけた。
 本当ならオデュッセウスは戻ってこないはず。だから物語の中では、すごく頑張って、イタカに戻ってきた。
 本当なら悪者の貴族はそのままイタカを牛耳りつづけたはず。だから物語の中では、すごく残酷に皆殺しにされた。
 ひさちゃんはさっき、夫婦が再会してめでたしめでたし、で終わらせちゃったでしょう。原作はちょっと違う。
 夫婦の再会のあと、オデュッセウスは父親にも再会して、お互いの無事を喜びあう。それと同じ頃、オデュッセウスに殺された貴族たちの仲間が一致団結して、オデュッセウスに復讐するために王宮に向かう。オデュッセウスはわずかな手勢とともに迎え撃つ。その戦いを、女神アテナがやめさせたところで、めでたしめでたし、になる。
 こんなのをラストに持ってくるなんて、すごく嘘っぽいし、蛇足っぽいでしょう。皆殺しはしないで、特に悪かった奴を見せしめで殺すだけにすればいいのに。父親との再会を先にすませて、ラストは夫婦の再会で締めくくればいいのに。
 でも私は、意味があることだと思う。
 オデュッセイアという物語が嘘だから、ありえないことだから、こうやって終わらせたんだと思う。これは嘘だよ、現実とは違うんだよ、だからここでは願いがかなってもいいんだよ――って念を押すために。
 オデュッセウスはハッピーエンドだけど、悲劇よりも悲しいハッピーエンド。悲劇で悲しいのは物語の中なのに、オデュッセウスは物語の外が悲しい」
 緋沙子はもうTVを見ていなかった。窓の外を見ている。窓の外では、夜景の地平線を貫いて、540メートルの高さを誇る自立式電波塔、オスタンキノ塔がそびえる。
 緋沙子はその夜景の向こうに、三千年前のエーゲ海を見ているのだろうか。それとも、思い描いていたハッピーエンドをぶち壊しにされて、困っているのだろうか。後者のような気がした。
 悪いことをしたと思って、私は水を向けた。
 「ひさちゃんは帰りたい?」
 「どこに?
 私の帰るところなんて、ひかるだけ」
 そう言って緋沙子は、自分の手の爪に目をやった。
 マニキュアを塗ったばかりで、まだ物をさわれない。もうしばらくしたら二度目を塗って、また乾かして、トップコートを塗って乾かして、やっとできあがる。ペディキュアも同じ状態なので、歩くのも慎重にしないといけない。
 マニキュアが固まるまでのあいだは、なにをしても抵抗されない。だから私は、いつもさんざん意地悪やいたずらをしてきた。けれど今はそんな雰囲気ではない。
 私は緋沙子の頭をなでて、返事のかわりにした。
 緋沙子は頭をなでられるのがとても好きで、一緒に部屋にいるときはよく、ちょうどなでやすい位置に頭を寄せてくる。
 そのとき静かに緋沙子は言った。
 「イギリスの映画監督から話が来たの。主役。きょう監督と会ってきた」
 緋沙子はいま女優だった。演技力よりは美貌と存在感で売れている――と言われるが、そう言われるくらいには売れている。いままでの仕事はロシア国内だけだった。
 「イギリスは入国禁止じゃないの?」
 行けるなら迷わず行きなさい、という気持ちをこめて、私は訊ねた。これまでも何度か、撮影で家を空けたことはあった。
 「撮影はカナダ」
 さっきから緋沙子はずっと自分の手の爪を見ていた。緋沙子はこういうことに気が短い。私が面倒を見るようになるまでは、マニキュアを早く乾かすために氷水に漬けたりしていた。
 「すぐ戻ってくるんでしょ?」
 緋沙子は目を上げ、振り向いて私を見た。鋭く。
 「警護して。私を。雇うから」
 初めて会ったときにはすでに緋沙子は女に見えた。今から思い返すと、あのころの緋沙子がとても幼く思える。思い出のなかだけでなく、いま目の前にいる緋沙子さえも、幼く思える。出会って間もないうちの私には、緋沙子の虚勢ばかりが見えていた。いまでは幼さがよく見える。
 いま再び私の目に、緋沙子が女として映る。
 虚勢のためではなく、魔法のような美しさのためでもなく、緋沙子の力が、そうさせている。
 
 そして悟った。
 きっと私はいつか帰る。
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Posted by hajime at 2006年08月29日 23:57
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