参考文献その3。東ドイツ関連のものを、といっても1冊だけ。
・クリストフ・ハイン『僕はあるときスターリンを見た』(みすず書房)
他にも多数あるが、あいにく手元になくタイトルを思い出せない。
千葉国の設定には、東ドイツと西ベルリンが混じっている。
東ドイツ政権は、東側としてはかなり国民に支持されていた。特に文化人からの支持が厚かった。理由は、国民がよく本を読んだからだ。東ドイツがもうちょっと長生きしていたら、『R.O.D』の敵役はシュタージになっていたにちがいない。
西ベルリンは、補助金と兵役忌避者でできたハリボテだった。連合軍の占領統治地区だったので兵役はなかった。陸の孤島なので産業が栄えるはずもないが、西ドイツ政府は東側に見栄を張るために莫大な補助金をつぎこみ、繁栄のイメージと220万人の人口を維持した。
*
4ヶ月で英会話を覚え、依頼人の警護の引き継ぎを済ませて、私はカナダに発った。緋沙子とともに。
千葉国王が大人気のロシアとは対照的に、旧西側諸国では、千葉国王に関することは報道されない。旧西側諸国は、日本との関係を重視して、千葉国王の存在をできるかぎり黙殺してきた。日本以外の旧西側では誰も私のことを知らない。映画の撮影チームは50人以上の大所帯だから、私ひとりくらいは目立たずにまぎれていられるかもしれない、と願っていた。
けれど、撮影チームの誰かが、緋沙子と私の過去を知っていた。たちまち緋沙子にはMadam、私にはKnightess(knightの女性形)というあだ名がつき、千葉国王や昔のことをあれこれ訊ねられるようになった。
質問には、馬鹿馬鹿しいものもあれば、辛いものもあった。
「国王の即位式には宗教儀式はないのかい? 剣を岩から引き抜いたりさ」
それはアーサー王だし、たぶん宗教でも儀式でもない。
「国王はショーグンとどういう関係にあるのかな? タイラノ・マサカドとの関係は?」
ロシア軍の将軍ならときどき引見なさっていた。平将門は千葉の英雄ではあるけれど、現在の千葉国とはつながりがない。
「刑務所で服役中でも、抽選に当たれば、国王になれるの?」
理論上はなれる。とはいえ、王位継承者の服役囚はほとんどいない。
「千葉が日本に統一されて、国王はどうなったの?」
辛い質問だった。
「国王の地位がいまでも法的に有効かどうかを争って裁判してる」
「判決はいつごろ?」
「あと1年か、1年半」
「勝てそう?」
「不可能」
「敗訴が確定したら戦争?」
「西千葉はとっくの昔に北アイルランドよ」
ああ、西千葉、知ってる、と彼女はうなずいた。
モスクワではこういう話をしたことはなかった。千葉国王のことは、いつもニュースで流れていて、常識だった。慣れない英語で新鮮な会話を交わすと、昔のことがありありと心に甦ってくる。
そして、なにより辛い質問は、こうだった。
「あなたの後任はどんな人?」
橋本美園。
「女で、私より何歳か上で、私よりちょっと背が高くて――」
「ずばっと一言でいうと?」
美園がどんな人か、少しだけなら知っている。知っているから、言えない。慣れない英語では、なおさらだった。
美園のことを言うかわりに私は、自分の辛い思いを告げた。
「――去年、テロにあって、右足の甲から先をなくした」
もし私が辞めなければ、美園はこんな目にあわなかった。
「女王は?」
「無事」
「なら、いいじゃない。Knightess、あなたが同じ立場にいたら、そうでしょう?」
その言葉で、私の心は、遠い昔にかえった。
『私よりうまく陛下をお守りできる人は、ほかにいるでしょう。けれど、もし陛下の楯となって命を捧げる日がきたとき、満ち足りて死んでゆけるのは、ほかの誰よりも、この私です』
その思いが、いまでも色あせていないことに、驚く。
Continue