2006年09月06日

信じさせる力

 佐藤亜紀『小説のストラテジー』(青土社)を読んだ。
 余談。秋葉原の書泉ブックタワーで買う予定でスケジュールを組んだら、なんと入荷していなかった。書泉ブックタワーに三度アナテマ。
 さて書評。
 書いてあることはいちいち正しくてもっともで、この程度のことは漠然とでもわかっていないと困るのだが、かといって誰かがしっかり書いたことがあるかといえば、ないような気がする。つまり、よくできた本だ。

 どんなことが書いてあるか。
 板垣恵介『範馬刃牙』に、刃牙が空想上の巨大カマキリと戦う話がある。ほぼ世界最強の格闘者になった刃牙は、イメージトレーニングの相手に事欠き、巨大カマキリを空想してそれと戦った、という話だ。小説を読むことはこれに似ている。読み手にとっての小説は、刃牙にとってのカマキリのようなものだ。
 巨大カマキリをどうイメージすればいいか。それにはまずカマキリを知る必要がある。どんなアプローチでカマキリを知るか。そして巨大カマキリとどう戦えばいいか。この一冊を読んでから小説を読めば、君にも刃牙の気分が味わえる!
 書評はここまで。
 この本に書いていないことは当然いくらでもあるが、まず火力について。
 刃牙のイメージした巨大カマキリは、ボクシングのヘビー級チャンピオンより強い。だが人は、刃牙のイメージした巨大カマキリよりも、現実のヘビー級チャンピオンに興味を抱く。そこには、純粋な強さ(小説なら、美のもたらす快)以外の要因が働いている。それが火力だ。
 人は、銃弾が飛んできたら、伏せるか撃ち返すか逃げるかする。何事もなかったかのように平然としていることさえも、ひとつの態度になってしまう。銃弾の前では、態度を取らずにいることが不可能だ。同じように、ある種の性的なモチーフが効果的に運用されたときには、心理的な態度を取らずにいることが不可能になる。これが火力だ。
 火力は時とともに生成・消滅する。たとえばドレフュス事件は、同時代のフランス人にとっては、まさに火力だった。事件の真相だの反ユダヤ主義だのを超えて、火力として暴走した。誰もがなんらかの態度を取った。無神論や進化論が火力として働いた地域・時代もあった。しかし現代日本ではどれも火力ではない。いつかは、性的なモチーフも、火力ではなくなるのだろう。
 火力を使うと、読み手にも書き手にもダメージがある。心理的な態度を取ることのなかには、一回限りの、取り返しのつかないものがある。BLは火力の与えるダメージを緩和し、それまでには難しかった大火力の常用を可能にした。女主人公で「強姦されてハッピーエンド」をやりまくったら、そのダメージに長いこと耐えられる女性の読み手・書き手は、さほど多くはないはずだ。
 もうひとつ。これは主に私の個人的な体験なのだが、信じさせる力について。
 私はいつも嘘の皮を書いているのに、どういうわけか、その皮のすぐ下に私の経験や信念があると信じてしまう人が多い。皮のずっと奥には、たしかにある。12歳までアフガニスタンで育った私にとって、現代日本は今でもファンタジーの世界であり、私の書くものにはそれが反映しているはずだ。だが、皮のすぐ下には、私はいない。
 非常に分別のありそうな人でも、この誤解を抱くことがある。登場人物のひとりを指して、「こんな養護教諭はいない」と言われたときには腰を抜かした。ミッキーマウスを指して、「こんなネズミはいない」などとは言いそうにない人だったが。
 長いことこういう目にあっていたら、だんだんわかってきた。私はなにかしら特殊なやりかたで、嘘を書いているらしい。そのやりかたを使うと、最初から嘘だとわかっていても、読み手は信じてしまうことがあるらしい。そしてどうやら、効果的に火力を運用すると、そういうことが起こるらしい。
 思えば、心理的な態度を取ることと信じることは紙一重だ。だからこれを仮に「信じさせる力」と呼ぶ。
 火力と、信じさせる力。これらは、本書のいうような意味では文学的なものではないかもしれないが、かといって、まったく文学的ではないとも言いかねる。イデオロギー的でなく――特定の心理的な態度を前提とせず――火力とその作用や副作用を扱う習慣ができてほしいと、いつも思っている。

Posted by hajime at 2006年09月06日 03:27
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