2006年09月13日

1492:66

 今日も今日とてライダージャンプと唱えてみる。

 
                        *
 
 そのときはやれやれと思ったけれど、結局、私はそうするようになった。
 緋沙子を傷つけたい、という思いが芽生えて育つのを、自分ではどうしようもなかった。原因はわかっていた。毎日24時間、ほとんどかたときも緋沙子のそばを離れないからだ。しょっちゅう緋沙子とケンカするようになっただけでなく、よく泣くようになり、動揺から立ち直るのも遅くなった。
 こんな暮らしはよくない、緋沙子から離れたところで自分の生活を持つべきだと、頭ではわかっていた。けれど、緋沙子を傷つけるのが恐かった。それに、緋沙子との関係が壊れてしまうことが恐かった。
 『私の帰るところなんて、ひかるだけ』
 緋沙子はそう言った。あのとき私は卑怯にも黙っていたけれど、私だって緋沙子とそれほど違わない。私には家族も友達もいるけれど、緋沙子を置いてゆくことはできない。
 そうして私はますます余裕をなくし、なかば緋沙子を憎むようになった。
 と同時に、いままでよりもずっと、緋沙子を愛しむようになった。
 発作的に緋沙子を強く抱きしめて、そのまま何分もそうしている、というようなことが何度もあった。そんなときには、頭の中の蛇口が壊れたかと思うような、異常な多幸感に溺れていた。そんな多幸感のしばらくあとには、まるで反動のように、私は緋沙子を憎み、傷つけたいと願った。緋沙子を殺すことさえ空想した。自分の葬式を空想するような、倒錯した喜びがあった。
 そうして私も、緋沙子が私にするのと同じように、緋沙子にするようになった。
 最初は自分から誘ったのに、いつも緋沙子はひどく怯えて苦しそうにしながら、私を受け入れた。そんなにいつまでも苦しいものではないはずだと、だからこれはきっと演技か、それとも思い込みでそう感じているだけではないかと、私は疑っていた。そのことが私をのめりこませた。緋沙子を傷つけたことが、現実的なかたちで――怪我や痣として表れてしまったら、きっと私はそこで夢から覚めたように立ち止まっただろう。緋沙子の苦しみの現実性を疑い、なかば夢うつつのままでいた私は、その行為にのめりこんでいった。
 
 夢うつつを夢に引き寄せておくために、私は言葉を使うことを覚えた。
 「痛くないよ――痛いよ」
 私が『痛いよ』と言った瞬間、緋沙子は唇をきゅっと引き結んだ。特に力をこめたわけでもないのに、反応した。たとえ多少の力をこめたとしても、身体の中は鈍感で、あまり細かいことを感じ取れない。だから緋沙子は、私の言葉に反応して、苦しげな顔をした。
 やはり緋沙子は苦しいふりをしているだけ、だから徹底的に苦しがらせていい――私は力をこめて引き伸ばした。
 「ぎゅうううう」
 顔をしかめて泣きそうになりながら、緋沙子は苦しみに耐えた。それとも、耐えるふりをした。けれどまだ先は長い。事の終わりにはいつも緋沙子は涙を流している。
 「今日はぜったい、第一関節まで入れるよ」
 緋沙子は、半開きの口から息を漏らしながら、こくこくとうなずいた。
 「本当に入るの?」
 「はい」
 その声の哀れさが私をかきたてる。緋沙子もそれがわかっていて、わざとそうしているにちがいない。
 「このあいだもそんなこといって入らなかったじゃない?」
 「入れてください。お願いします」
 緋沙子が敬語を使うたびに、私は必ずやめさせてきた。けれどこのときだけは言わせておく。いまは現実よりも夢に近い。緋沙子の夢にまで口出ししたくない。
 
 事のあとには、ひどい自己嫌悪が待っている。
 夢のなかでしか許されないような独善で緋沙子に接したこと。なによりも、それがわかっていて、やめられないでいること。陛下の警告が身にしみる。『自分でもわけがわかんないけど、やめられないの、悪いこと』。緋沙子がもう子供ではないということだけが救いだった。
 落ち込む私をよそに、緋沙子はさっぱりした顔で、ガス入りのミネラルウォーターを飲みながら、日記をつけていた。
 緋沙子の日記は、筆記用具が変わっている。筆だ。そんなものを使うだけあって、緋沙子は字がうまい。字を書く姿もさまになっている。まんが家でも、絵のうまい人がペンを走らせるときのリズムには音楽的なものがある。
 私は自分のベッドに入ったまま、机に向かう緋沙子の、横顔を眺めている。
 そうしていたら、なぜか突然、訊ねてみる気になった。
 「……ひさちゃんは、いつもすごく痛がってるけど、まだそんなに痛い?」
 「え?」
 「これ」
 私は右手を上げて示した。
 緋沙子は怒ったように目尻をつりあげ、
 「演技」
と、語気も荒く言い捨てて、日記に戻った。
 なぜ緋沙子が怒ったのか、わからなかった。だから疑いはとけなかった。緋沙子は自分の弱さや苦しみを隠したがる。それでも私は少しだけ自己嫌悪から逃れられた。緋沙子はもう子供ではないのだ。
 ふと、陛下のことを思う。陛下のなにを思うのでもなく、ただ、陛下のことを。
 その瞬間、緋沙子が手をとめて、こちらに目をやった。まるで私の心を読んだかのように。心臓が止まるかと思った。
 けれど緋沙子は超能力者ではない。
 「……歯医者で、歯を削るときの音。あの音って、痛くなくても恐い。そういうのと同じ」
と緋沙子は、さっきの返事を取り消した。そして日記に戻った。
 ふたたび緋沙子の横顔に癒されながら、思う。
 私はきっと陛下のお側に帰る。
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Posted by hajime at 2006年09月13日 22:38
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