2006年09月08日

1492:65

 設楽ひかるが、発信者番号通知をしたものかどうかを悩むシーンがある。これには私の経験が反映されている。
 といっても、同じことを悩んだのではない。私の携帯はデフォルトで非通知になっているのだが、そのことをすっかり忘れて、通知すべきときに非通知でかけてしまったことがある。気づかないまま何度もかけたうえに、気づいたときにはもう謝るには遅すぎた。
 というわけで、ボトルメールをここで。
 Sさん、ごめんなさい。とみなが貴和『EDGE』は買ったものの読んでいません。里中満智子『あすなろ坂』も、ちょっと立ち読みしただけです。

 
                        *
 
 ここ何年か緋沙子とは、はっきりした身体の関係がなかった。
 モスクワに落ち着いたころから、だんだんそうなっていった。もしかすると友達同士でもするかもしれないくらいに身体を触れあうだけで、深く触れることがなかった。たまに、じゃれあいから深入りすることもあった。そんなときはいつも後味が悪かった。緋沙子を不安にさせているのかもしれないと思い、迷ってしまった。
 けれど、バンクーバーでの撮影が終わり、モスクワの家に帰ってきた夜のことだった。
 シャワーを浴びて出てきた私に、緋沙子は、新品のインナーウェア上下を突きつけた。差し出した、というより、突きつけた、だった。カメラの前以外での緋沙子はいつもぶっきらぼうで、あまり女らしい仕草をしない。
 「これ、ひかるに似合うと思うの」
 青みを感じるほど白いシルクだった。リバーレースと同色刺繍がさりげなく使われている。普段使いのものではない。上品ではあるけれどちょっと少女趣味で、私よりは緋沙子に似合いそうだった。
 「着て待ってて」
 緋沙子はシャワーを浴びにいった。そして、そういうことになった。
 
 カナダで撮影した映画はそこそこ当たり、英語圏での仕事を緋沙子にもたらした。
 もちろん、いきなりスターというわけではなかった。ときどきキャスティング・ディレクターから連絡が入り、二ヶ月に一度くらい欧米に行っていくつかオーディションやカメラテストを受け、たいてい落ちる、という具合だった。欧米では端役ばかりだったけれど、冬には香港映画に大きめの役で出演し、これもそこそこ当たった。
 そのあいだ緋沙子はずっと私を雇いつづけた。
 護衛官時代は、プライベートのときはほとんど陛下にお目にかからなかった。原則として週に5日、日に8時間、それだけだった。けれど今度は、緋沙子と顔を合わせないでいるときがない。私は精神的にきつくなり、緋沙子とケンカすることが増えた。
 私が心の余裕をなくすのに比例するかのように、緋沙子はますます私を求めた。それも、かなり極端なやりかたで。
 
 私の身体のなかに、物理的に入り込むこと。それが緋沙子の望みだった。
 入るだけの指をできるだけ深く入れて、準備体操のストレッチのように引き伸ばす。ただそれだけのことが、ひたすら続く。慣れると、痛みや辛さはあまり感じなくなった。それでも、交わったあとにはいつも、処女を失ったあとのようなひりひりとした感覚が残った。
 私も緋沙子も、ほとんどしゃべらない。たまに緋沙子がなにか言うと、私は自分でもおかしいくらい動揺した。
 あるとき、沈黙のなかで緋沙子がぽつりと言った。
 「前より濡れやすくなってるね」
 それだけで私は混乱して、
 「だからってこんなことしていいと思ってるの?」
 自分で言っていて、わけがわからなかった。私は緋沙子の行為を受け入れている。苦痛や不安を覚えたことはあっても、拒んだことはない。
 私の動揺は緋沙子にも感染した。一瞬、緋沙子は怯えたように身体を硬くしてから、おずおずと、
 「ひかるの身体が欲しがってるんじゃない」
 まるで棒読みだった。
 動揺したままの私の頭は、ふらふらとよろめきながらも働いて、どうにか緋沙子の気持ちを読み取った。緋沙子は、そう簡単に退くわけにはいかないと思って、虚勢を張ったのだ。
 その虚勢を解きたいと思って私は、共犯の含みをこめて言った。
 「欲しがってるのは私だけ?」
 緋沙子の緊張がほどけたのを感じた。私のなかに入り込んだ指に、力がこもって、引き伸ばす。
 けれど、共犯の含みは通じていなかった。
 「……ひかるも、してみる?」
 やれやれだった。
Continue

Posted by hajime at 2006年09月08日 22:28
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