2006年10月23日

1492:74

 人に会うたびに「こばと会に入るんだ」と言ってまわっている今日このごろ、読者諸氏はいかがお過ごしだろうか。
 方法論(ソフトウェア開発の)と恋愛論は似ている。どちらも自分語りの電波、つまり巣鴨こばと会文書だ。だから面白い。アジャイル方法論を人に押し付ける連中(1, 2)は、巣鴨こばと会メンバーによく似ている。
 ただ困るのは、彼らがゾンビではなく経営陣だということだ。自分では体を張らずに、上から物を言う。最悪だ。
 恋愛論のなかでも、「結婚できる・できない」という問題系では、女性はこの管理職の立場にある。
 この問題では、女性は体を張らない。統計をみると、女性は結婚してもしなくても、平均余命は変わらない。しかし結婚しない男性は露骨に短くなる。そして男性の配偶者は(たいてい)女性だ。この客観的諸条件のもとでは、女性がなにを言っても、「上から物を言う」ことになる。
 というわけで、上から物を言いたい女性諸氏は、「結婚できる・できない」という問題系で発言してみるといい。運がよければ暇人が食いついてくるかもしれない。

 
                        *
 
 電話がつながるなり、
 「あのねえ、私はそんな重たい女じゃないの。昔の男の携帯番号なんてすぐ消すよ? 昔どころか今の男でもうざいんだから――なーんてね。今の男なんていないよ。この仕事ヤバいわ。仕事っていうか陛下がヤバいんだけどさ。……って、愚痴は後回しだ。
 昔の携帯番号なんてすぐ消すっていうのは本当。消さないのは、なんてのか、自分的に記念な奴。昔の男なんてぜんぜん記念にならないけど、昔の女は、けっこうグレード高い。それに、初めてだったしね。
 こっちはこんな感じかな。
 ――ひかるさまはいかがお過ごしになられましたか?」
 その声に、口調に、昔のさまざまな思い出が呼び覚まされる。
 「いまちょっと泣けました」
 「こーんないい女をほっといたんだから、そりゃあ泣けるでしょう。
 いろいろ思い出した? 私の匂いが恋しい?」
 「いま友達の車の中ですので」
 「なにそれ。もっと節操のあるところでかけようよ。テンションあげてないと、こっちも泣けてきちゃうじゃないのよ。
 あーやだやだ泣けてきた。あさっての朝10時に、うちに車で迎えにきてよ。うちはいま官舎。ディズニーランドいこう。じゃね」
 電話が切れた。
 由美が言った、
 「車、貸そうか?」
 「聞こえなかったふりしてよ」
 「黙って役得って嫌いなんだわ」
 「……車は貸して」
 私はハンカチで涙をぬぐった。
 
                        *
 
 朝、美園のところに行く前に、木更津の街をひとめぐりした。
 駅の近くのアニメショップは、どうやらまだ営業しているようだった。陛下のご贔屓をあてこんでできた店で、その狙いどおり、陛下はよくここに立ち寄られていた。いつ行っても閑散としていて、そのうち潰れるのではと心配していたけれど、杞憂だったらしい。
 港の出口にかかる高さ27メートルの歩道橋、中の島大橋に登り、街を眺める。緋沙子の住んでいたマンションが見える。公邸は、木立に囲まれているので、ここからは見えない。離れの端っこが見えるだけだ。けれど、その端っこにさえ、胸がしめつけられる。
 海のほうも眺める。この橋は海の上にあるので、足の下から水平線まで、ずっと海が続いている。欄干が低くて、ちょっと恐いかわりに、眺望を遮るものもない。もやのない晴れた日には、地球の丸さを目で見ることができる。あいにく今はまだ朝もやが残っていて、それほどではない。
 初めてここに登ったのは、いつだったか。護衛官に任じられて、研修を終えて官舎に入って――たしか日曜日だった。
 あのとき私はまだ通販を使っていなくて、休日のたびになにかを買いに、千葉市や品川まで行った。ものすごいお金持ちになったような気がして、いろんなものが欲しかった。まんが家のアシスタントをしていた21歳の女にとっては、指定職4号俸は使い出があった。欲しかった靴を全部買った。その嬉しさも、買い物をする時間がもったいないと、気づくまでのことだったけれど。
 橋を渡り、中の島に降りる。島の西側は潮干狩り用の砂浜で、フェンスに囲まれていて入れない。私は東側にある公園を歩く。この公園にあるのは芝生と木立だけで、遊具やベンチはない。野球ができるくらいの面積をひとり占めして、あてもなく歩く。中の島には人家がないので、朝からここに散歩にくるような人はいない。
 一度、ここで警護をしたことがある。なにかのイベントだった。どんなことがあっただろう――そうだ、陛下はおっしゃった。『海っていいよねー。どきどきする。ひかるちゃんは?』。なんとお答えしたかは、覚えていない。
 
 公邸周囲の検問線を、ひさしぶりに通る。
 身体検査・荷物検査・車両検査は昔と同じだったけれど、ビデオ撮影が追加されていた。顔や身振りの特徴を指紋のように数値化する技術を使ったもので、街頭の監視カメラなどのデータと照合・分析することで、その人物に怪しい行動歴がないかを調べる。
 内側の検問線にいた警官のひとりが、昔の顔見知りだった。笑いながら敬礼してくれたので、こちらも笑いながら答礼した。
 美園は門の前で待っていた。助手席に乗り込みながら美園は、
 「おはよー。
 儒教の二十四孝って知ってる?」
 なんの前置きもなしに話が始まる。美園だ、と実感する。
 「いいえ」
 「昔の中国の親孝行物語のベスト24決定版、って感じの奴なんだけどさ。このなかに、70歳のジジイが幼児プレイする話があるんだわ。ジジイが赤ちゃん役で、相手はジジイの親、95歳!
 なんで幼児プレイするかっていうとね、子の自分が老けこんでると、親は己の歳を感じて辛いから、親孝行のために、自分は赤ちゃんのふりをする――っていうんだわ。頭おかしいね。
 でも、さっきお化粧してたら、幼児プレイジジイの気持ち、ちょっとわかった。
 自分が老けてるのは嫌じゃないけどさ、私が老けたのをひかるに見せるのは、辛いなーって」
 私は車を止めた。
 「運転中に泣かせないでください」
 「それじゃ今のうちに徹底的に泣かせるぜ。
 私が離婚したの知ってる? 知らなかったでしょ。そのへんの情報はきっちり押さえてるからね。子供はあっちに取られた。離婚原因が私だし、男の子だから家の後継ぎって奴だったから。もっと産んどけばよかったなあ。ああそうそう、離婚原因は私の浮気ね。男。子供の養育費も払ってる。泣けるでしょう。
 離婚もヤバかったけど、陛下は現在進行形でヤバい。もういっぺん浮気したら刑務所に行ってやる、って言われたよ。私を殺して刑務所に行くんだって。自分も死んでやる、じゃないってのが、いいよね。おっと、自慢話になっちゃった。
 仕事のときの服にはけっこう張り込んでるんだけど、見てくれてた? あれと養育費で、給料全部ふっとんでるんだわ。おかげで貯金はぜんぜんなし。泣けるでしょう。
 そして真打はこいつ」
 美園は右足をダッシュボードの上に置いた。靴はサンダルで、爪にはペディキュアがしてある。一瞬、生身の足に見えた。
 「よくできてるでしょ。左足の型を取って、コンピュータで左右反転させて作ってあるの。高いんだよ。
 これはね、今は別にいいんだわ。普通に歩けるし。歳をとってからが問題でね。長生きしたら、関節を痛めて車椅子になるだろうって。泣けるでしょう。そうなったら、ひかるが車椅子を押してよ――冗談だって。男くらい見つけるよ。
 泣ける話は、これで全部かな。
 人生なんて四苦八苦よ。仏教の四苦八苦、知ってる? 生・老・病・死、怨憎会苦、愛別離苦、……あと二つ、なんだったっけ。まあいいや。
 でもね、楽しかった。
 さーて、ディズニーランドにレッツゴー」
 美園は威勢よく号令をかけると、おとなしく黙って、私が泣きやむのを待ってくれた。
Continue

Posted by hajime at 2006年10月23日 22:05
Comments
Post a comment






Remember personal info?