2006年12月23日

映画『LOVE MY LIFE』

 やまじえびね原作のレズビアン映画である。現在、渋谷のシアターNにて公開中。
 この映画の見どころ:
1. 役者
2. オサレ
3. 石田衣良(作家)
 見てはいけないところ:
1. 図式的な思考回路
2. 凄味のないオヤジたち
3. 翻訳家と作家がオサレな商売という謎ドリーム
 特に1は最悪だ。この映画(原作もだが)のセリフは、百合的なものから一番遠いところにある。
 こういう図式的な思考回路のことを深く突っ込むと、百合の根底にかかわる大問題になるので、いままで意図的に論じないできたが、百合業界も安定してきたので、今日は突っ込んでみる。

 
 人間は他人のことに関心がないので、他人事はすべて図式的な理解で済ませる。かくして人間社会はすべて図式的な理解にもとづいて構成される。
 「レズビアン」と言挙げする人々は、この図式的な理解を相手取って言挙げしている。だから「レズビアン」と言挙げする表現は、図式的な思考回路へと引きずられやすい。
 また、「レズビアン」と言挙げすることのなかには、正当性の主張が必然的に含まれる。正当性とは社会的なものであり、すなわち図式的なものだ。このような正当性を主張するためにも、図式的な思考回路へと引きずられやすい。
 百合は、こうした図式的な思考回路を排する。百合は作品であり、他人事ではない。図式的な思考回路へと引きずられる理由はないし、引きずられるべきでもない。
 
 この問題の厄介なところは、「図式的な思考回路にもとづく表現はすべてダメ」とは言えない、という点にある。
 人間は他人事を図式的にしか理解しない。社会は他人事で構成される。となると、社会に対してアプローチするには、図式的な思考回路にもとづく表現が必要になる。「図式的な思考回路にもとづく表現はすべてダメ」というのでは、既存の社会を無条件に肯定することになる。
 というわけで百合は、レズビアンの立場からの表現と、なんらかの折り合いをつける必要がある。香織派の百合の定義では、そこのところを「非レズビアンの立場」という表現にしている。
 
 これくらいでよせばいいのに、さらに事を荒立ててみる。
 「社会に対してアプローチするには、図式的な思考回路にもとづく表現が必要になる」と上で書いたばかりだが、図式的な思考回路にもとづく表現は、その革新的な意図を裏切って、保守的なものになりやすい。体制の左足、とでも言うべきか。既存の社会を構成する既存の図式を疑うことなく鵜呑みにして、その図式の中で正当性を主張するような真似に陥りやすい。たとえば「レズビアンは自然」というような言い方だ。
 「レズビアンは自然」まで行くとわかりやすい。だが、「レズビアン」だけでもすでに、体制の左足の匂いがする。穏やかに生きたい下駄履きの生活者にとっては、それは望むところかもしれない。
 百合は違う。百合は、読者の頭のなかにある図式的な思考回路を破壊して、もう二度と無邪気に図式的であることができなくなるような、危険なものを目指す。
 百合は生活ではなく作品だ。危険でない作品など、せいぜい国民的ベストセラーにしか値しない。

Posted by hajime at 2006年12月23日 14:00
Comments
Post a comment






Remember personal info?