2007年04月21日

高田里惠子『グロテスクな教養』(ちくま新書)

 本書はいわゆる「教養論」の展覧会である。
 個人的な体験からひとつ。私が中学校に入ったとき、最初の数学の授業で、こんなことがあった。
 教師が黒板にコンパスで円弧をいくつか描き、「この円弧の中心を作図できる人、黒板でやってみて」と問い掛けた。私は内心、笑いが止まらなかった。この問題は、何ヶ月か前、自分で思いついて自分で解いたことがあったのだ。解くまでに要した時間は測らなかったが、十秒やそこらではなかった。つまり私は入学早々、ハッタリをかます機会に恵まれた――と確信した。愚かにも。
 出題の瞬間、いま解けるのはクラスで私ひとりだと確信して立ち上がったとき、まったく同時に、ほかに二人が立ち上がっていた。あのときの驚きは忘れがたい。
 さて読者諸氏はこのエピソードを、身近な体験だと思われただろうか。あるいは、雲の上の出来事と思われただろうか。本書は、このエピソードを身近に感じる読者だけを想定して書かれた、なんとも嫌な本である。
 ただ嫌なだけでも、それはそれで面白いが、それだけではない。本書233ページから。
 「自分自身で自分自身を作りあげる、と教養を定義したように、教養は、自分自身をどう見るか、他者にどう見られたいか、他者をどう見るか、ということに結びついている。そこから生まれうる、間違った自己理解と他者理解の錯綜した滑稽さは、わたしにとって、考察対象というよりも、毎日の生活のなかで直面している問題なのだ」
 ついでに、私の教養論を。教養論らしく、読者諸氏にご忠告申し上げることにしよう。
 本書にもあるとおり、教養は「コミュニケーション能力」とやらにその座を奪われた観がある。どちらも枠組みが曖昧であり、そのため評価も曖昧だ。評価が曖昧なものに振り回されるのは時間の無駄だ。もてあそんで暇を潰すにはいいが、真に受けると馬鹿をみる。
 なに、「その曖昧さに耐えられないからダメなんだ」? もてあそぶだけで真に受けないことが、耐えるということだ。7andy

Posted by hajime at 2007年04月21日 18:03
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