かつて『丘の家のミッキー』をものしてコバルト文庫の人気作家になった著者が、自身の作家生活を振り返った本である。「コバルト」とは銘打っているが、著者の個人史の印象が強い。
本書のテーマ――読者は信じるに値するか?
著者は、コバルトの読者層の変質に伴い、読者への不信を深めていったという。また現在のライトノベル読者への不信ものぞかせている。
読者への不信を象徴するのが、「おかみき罵倒の嵐事件」だ。
著者は『丘の家のミッキー』の終盤で、主人公から彼氏役にキスする話を書いた。これが一部読者の反発を買い、著者のもとに激越な調子の抗議文が多数寄せられた。この件で著者は衝撃を受け、読者への不信を深めたという。
他人事の立場から言わせてもらえば、これはむしろ、「馬鹿どもに誤爆したぜ奴らションベンもらしてベソかいてるよヒャハハハハ」と喜ぶところだ。というより私は喜んだ(あくまで他人事として)。
この悪意あふれる態度は、しかし、悪いだろうか。
むしろ善い、と私は信じる。
人間は、たわごとをわめき気違い沙汰に励む。これは世界の法則であり変えることのできないものだが、この法則に対してどんな態度をとるかは、人間の自由に委ねられている。
単純な態度はあまりよくないように思える。気違い沙汰のあげくに死ぬこともある(それも頻繁に)ので、単純な推奨はよくない。だが、たわごとを言わず気違い沙汰をしないような人間は、人間というよりは、賢い獣のようだ。単純な禁止は、「賢い獣であれ」と命令するのに等しい。
人間的なたわごとと気違い沙汰を、人間として認めあい喜びあおうとするとき、上のような悪意あふれる態度は、正しいはずだ。
このような態度をとるとき、「読者は信じるに値するか?」という問いに対する答はおのずと明らかだ。信じるに値しないような読者は、笑いのめすに値する。どちらも等しく喜ばしい読者だ。7andy