2008年02月08日

笙野頼子『だいにっほん、おんたこめいわく史』(講談社)

 笙野頼子『だいにっほん、おんたこめいわく史』(講談社)を読んだ。
 最近、とある早大生と話したとき、笙野頼子で卒論かなにかを書くのだと聞いた。どう切るのかと尋ねると、女性文学やフェミニズムの方面だという。そんなものだろう、と思いつつ、強い違和感を覚えた。笙野頼子をフェミニズムで切っても、笙野のいう「イカフェミニズム」や「学者フェミニスト」を解説する以上のなにができるのか。
 それ以来、笙野論の切り口をずっと考えていた。本書を読んで、答のひとつが見えた。公共性だ。

 例えばお尻マニアの雑誌は一万部売れるという、しかしそれはただの欲望である。自己都合で売れる一万部が、そのまま思想支援の一万人にはならないだろう。無論、お尻の思想というものがあってそのために死ぬ人はいるかもしれない。だがそのような人が切実にお尻を擁護する理論構築をしたとしても、そこに普遍性は宿るであろうか。無論、もし普遍性が宿るとしたならばそれは公共的文化ということになるのであるが。
 しかしその場合は他者の想像力に訴え、緊張感のあるグローバルな視点を持たなくてはいけないのだし。つまりは、お尻の公共性である。
(62ページ)

 私なりに言い換えれば、パンストフェチの目に映る世界を描くエロ小説は、「パンストはエロい」ということを読者に説得しなければならない。

 ある頭いい評論家は国家の大きな物語が見えなくなった時代、小さい身の回りの事を書く小説が中心になったと言っています。え、でも国家対抗的な主人公だったらひとりひとりは小さくても思想、感覚は大きく出来るでしょ、小さい私から大きく振り返るそれが文学だ。
(220ページ)

 国家対抗的という話ではないが、緊張感のあるグローバルな視点を持って「パンストはエロい」と全身全霊で説得するエロ小説(もはや純文学のような気がするが)は、国家よりも小さいといえるのか? パンストフェチの目に映る世界は「小さい身の回りの事」なのか? 国家を基準にして物事を測る夜郎自大な態度のほうが、全歴史の全人類を説得しようとするパンストフェチより大きいと、なぜいえるのか?

 市場原理は個人より大きい、しかしでは個人の命や私有や精神よりも大事なのか、ここを曖昧にしてくるのがおんたこである。「公共の福祉」という言葉は権力しょった上で、叩かれまくりながら使う言葉ですよ。それなのに大きいという事を公共と言ってくる。既に個人の利益追求の範疇を越えた、消費のいきおいや怪物的経済を大衆の総意と称してくる。
(212ページ)

 公共性は、数の論理や大きさに宿るのではない。社会の中での合意形成だけの問題でもない。社会の外にいる他者を想像する努力、他者の批判に耐えようとする決意、他者の想像力に訴える態度に宿るのだ。
 
 審美的判断はこのような公共性を前提とする。
 芝居や絵の「上手下手」という判断を例にとって説明しよう。上手下手は論理的に白黒がつくものではなく、官能的・審美的なものだ。「論理的に白黒がつかないことは判断してはならない」などと極論に走るのでもないかぎり、人々の審美的判断はおおまかな一致をみるし、一致を得るために話し合うこともできる。また同じくらい確かなこととして、人々の審美的判断は完全には一致しない。あらゆる審美的判断には異論の余地がある――ただし、異論を差し挟むには資格がひとつ要る。その芝居なり絵なりを鑑賞した、という資格が。
 思考実験をしよう。「自分は『モナ・リザ』以上の絵を描いたが、誰にも見せないうちに焼いてしまった」と主張する画家がいても、誰も真に受けないだろう。「誰にも見せないうちに」という部分を「一人だけに見せてから」と変え、その鑑賞者が「確かに『モナ・リザ』以上だった」と証言しても、事態はほとんど変わらない。
 さて問題である。「一人だけ」が「十人だけ」のとき、あるいは「一億人だけ」のとき、事態はどれくらい変わるか?
 もし鑑賞者十人と画家が話し合い、「あの絵は『モナ・リザ』以上だった」という共同見解を発表したら、胡散臭さに茶番が重なって、事態はむしろ悪くなる。一億人いれば、もっと悪くできる。もし画家がスターリンで、一億人の鑑賞者が全員ソ連人民なら、胡散臭さと茶番と圧制の三重奏だ。
 事態をまともにするには、他者が必要だ。関係者の誰ともグルでない(=社会の外にいる)、自由に発言する、異論を差し挟む資格を有する他者が必要だ。評価を下すとき鑑賞者は、そのような他者を意識し、他者に対して説得力のあることを言おうと努めなければならない。このとき他者は実在しなくてもいい。もし誠実な鑑賞者なら、有資格者が自分ひとりのときにも、同じ努力をするだろう(ただし、評価を聞く人々がその誠実さをどれくらい信じるかは別の問題だ)。
 他者なしで下された評価は、スターリンの見世物裁判が無効なのと同様、審美的判断として無効である。
 
 美術評論家は、新聞などのマスコミに対する影響力を持つ。審美的判断と公共性の結びつきが、現実の社会に表れている例だ。
 他者を想像し、他者の批判に耐え、他者の想像力をかきたてる能力において、美術評論家は素人よりも優れている、と期待されている。努力や態度だけなら素人でもできるが、素人にはないような能力がある、と期待されている。
 もし美術評論家が誠実ではなく茶番をしているなら、マスコミに対する影響力は許されない。美術評論家の茶番に紙面を割く新聞は、悪徳商法の片棒を担いでいることになる。
 この絵をいくらで買いますか?
 村上隆が欧米の美術界に登場してから、もう何年も経った。初めてその作品を見たときには、「じきに日本通からさんざん叩かれ、支持してくれる美術評論家もいなくなって消えるだろう」と思っていた。しかしどうやら私はナイーブだったらしい。欧米の美術評論家の誠実さを、無邪気にも信じていた。彼らはただ無知なだけで、日本通から示唆を受ければすぐに勉強して視野を広げ、「この絵はプラクティカル・ジョークです。これをこの超ボッタクリ価格で買うという行為が本当に痛々しくてアートです。痛車に比べると評価は一桁落ちますが、絵なら買ってきて飾るだけだから楽ですね。こつえーとか知らずにこれ買う人はププププ」という評価に至り、マスコミを通じて広めるだろう、と信じていた。
 それが今では、エピゴーネンまでが大手を振ってまかり通るようになったらしい。明らかに、欧米の美術評論家は、茶番をしている。欧米の美術界は巨大なエウリアンだ。この事実はぜひ告発しなければならない。
 しかしより重要なのは、エウリアンが悪徳商法たる所以を解き明かす原理として、公共性を高く掲げることだ。
 繰り返そう。公共性は、数の論理や大きさに宿るのではない。社会の中での合意形成だけの問題でもない。社会の外にいる他者を想像する努力、他者の批判に耐えようとする決意、他者の想像力に訴える態度に宿るのだ。
 
 笙野頼子の作品は、公共性を願い求める声として読み解くことができる。
 笙野の作品は、自らの苦悩や幻想から公共性を引き出そうとする試みだ。と同時に、公共性にもとづいた地位にありながら公共性を忘れた人々を叩いている。
 笙野の初期作品には、「他者がいない」と言われることがある(私がこの耳で聞いた)。なるほど、作品の中にはいない。だが笙野は、身をよじるほど他者を想像し意識している――読者という他者を。他者がいない作品を覗き込むとき、読者である私の目には、自分自身そして社会という他者が映っている。

Posted by hajime at 2008年02月08日 06:19
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