2008年03月03日

自己責任教は合成の誤謬

 近頃ネットで流行るもの、「自己責任教」について。
 自己責任教について知りたければ、私の日記など読まずに笙野頼子を読め、と言いたいところだが、つまらないものはつまらないがゆえに必要とされる面もあるので、必要に応じてみることにする。
 あなたがある日、「自分の暮らしをもっと豊かにしたい」と思ったとしよう。そのとき黙って「自分が貧乏なのは政府のせいだ」ということにして、そのまま何もしなければ、あなたの暮らしは何も変わらない。黙って座っているだけの人間が、願いをかなえるはずがない。
 願いをかなえたければ行動すべし――これは妥当である(命題A)。
 あなたは行動を決心したとしよう。自分の願いをかなえるためには、政府に働きかけるのと、雇い主に働きかけるのと、どちらが効率がいいか。後者である。
 もっとも効率のよい行動を取るべし――これも妥当である(命題B)。
 もし全国民が、命題A・Bをわきまえて行動すると、政府はけっして働きかけを受けない。どんな重税と浪費をやっても放っておいてもらえる。重税と浪費はいつまでも解消されず、国民はいつまでも不当な貧しさに甘んじることになる――これは受け入れがたい(誤謬X)。
 「Xは誤謬ではない、命題A・Bが妥当なのだからXは妥当だ、受け入れろ」と言い張る宗教が、自己責任教である。
 
 誤謬Xは、「個人を単純に合成するだけで国民になる」という前提から発生する。合成の誤謬だ。
 そのような国民を作り出すことも、かなりの程度まで可能だ。現実問題として、農協のような圧力団体は、頭数では十倍もの敵をやすやすと屈服させてきた。昔の米価の逆ザヤは、誤謬Xのわかりやすい具体例である。
 誤謬Xは事実として存在する。問題は善悪にある。誤謬Xは正しいか?
 正しいわけがない。事実として存在する誤謬Xはすべて、この世界が欠陥品であることを証し立てている。
 
 だからといって、「国民はみな国民としての政治意識を持ち政治参加すべきだ」と主張すれば、これもまた誤謬になる。
 それは一体どんな「政治意識」であり、どんな「政治参加」なのか。たとえばソ連では、党(共産党)を支持することが「政治意識」であり、党のイベントで小旗を振ることが「政治参加」だった。現在でも、投票率90%超の国政選挙をやらかしている国はみなこのたぐいだ。
 もっとも広い意味で政治を解するなら、言葉を話す人間はすべて政治意識を持ち政治参加している。プロレタリアート独裁や議会制民主主義のような、一定の枠の中だけを「政治」と思い、枠の外にあるものを無視するならば、これは誤謬である。
 
 さきほどから誤謬の話ばかりしてきた。いったい真実と正義はどこにあるのか?
 「真実と正義に満ちた天国はあそこだ、この道をゆけ」という主張は、現実には地獄をもたらしてきた。だから私は同じ徹は踏まない。この教訓は私ひとりに限ったものではなく、全人類に対しても、「天国行きのバスを僭称するのはやめておけ」と言いたい。
 そのかわりに私が提案するのは、誤謬を見て取り、誤謬に怒り、ときには誤謬を正すべく行動に出ることだ。
 QWERTYキーボードのような些細な誤謬は、見て取るだけで、お目こぼしを。タバコのような身近でむかつく誤謬には、時に声をあげること。
 沖縄の在日米軍問題のような巨大で動かしがたい誤謬に対しては、何十年でも時期を窺い、好機には流れをたぐりよせ、そしてなにより、怒りを忘れないこと。
 明らかな誤謬をまのあたりにしたときには、その誤謬がどれほど巨大で動かしがたくても、「妥当だ、受け入れろ」などと言い張ったりしないこと。
 つまり、良心を持ちつづけることを、私は提案する。

Posted by hajime at 2008年03月03日 00:58
Comments

>あなたは行動を決心したとしよう。自分の願いをかなえるためには、政府に働きかけるのと、雇い主に働きかけるのと、どちらが効率がいいか。後者である。

これがよくわかりません。
政府に働きかけた方が、より効率よく利益が大きくなる事だってあるのでは?そもそも、世の中には雇い主に働きかけたって何の意味もないことがたくさんあるわけだし、雇い主は政府に訴えかけるしかないでしょう。そうであれば、誤謬Xのように政府が何の働きかけも受けない、なんてことはおきないはずでは。世にはたくさんの中間団体や市民団体があるわけで、それらを通して個人が政府に訴えかけることによって、税率などが様々な政策変更等によって変わっているのが現実では?

Posted by: ase at 2008年03月04日 22:25

 まず暗黙の前提として、この議論の構図は非常に単純化されています。現実のあらゆる実態をカバーするものではありません。
 たとえば、政府は雇い主としても存在します。公務員を雇っているわけです。また、子供や年金生活者のように労働していない人は、この議論の構図に含まれていません。
 雇い主というのも、民法でいう雇用主よりも広く抽象的な、労働の対価を負担する人です。ロビンソン・クルーソーでない人は誰しも、店で商品を買うことを通じて、労働の対価を負担しています。
 人間の願いのなかには「米価引き上げ」のように圧力団体に向いたタイプのものもありますが、この議論では、圧力団体に向かないタイプの願いに注目しています。
 (言うまでもなく、圧力団体に向く向かないは、願いの妥当性とは無関係です)

 ある種の問題は、政府が独占せざるをえません。たとえば国家の安全保障です。
 最近流行りの自己責任教は、笙野頼子のいうところの「ネオリベおんたこ」です。この人々は口では「小さい政府」と唱えるくせに、軍事費をがんがん吊り上げます。独占をかさにきて暴利をむさぼる悪徳商人のクリシェそのまんまの行動パターンですが、自己責任教はこの異常事態を妥当だと言い張ります。この問題は長くなるので、もし興味があれば笙野頼子をお読みください。

 議会制民主主義について。
 道具を金槌しか持っていない人は、すべてが釘に見えます。釘に見えないものは、そもそも目に入りません。
 政治家ならそれで結構ですが、政治家の雇い主がそれでは心もとない限りです。

 問題があらかじめ限定されているときには、議論を実態に近づけ真へと接近してゆくことも役に立ちます。政策の具体案を立てるときなどがそうです。
 しかし限定がないところでは、「真を目指す」とか「真にもとづく」という考え方それ自体が危ういものになります。これをやると、明らかな誤謬を妥当だと言い張るような事態に至ることがしばしばです。たとえばプラトンの理想国家はその線を追求したもので、今では悪い冗談にしか見えません。
 理性は真を目指すかもしれませんが、誤謬を見て取るのは良心です。

Posted by: 中里一 at 2008年03月05日 10:08