ロバート・ダーントン『革命前夜の地下出版』(岩波書店)を読んだ。フランス革命への道は地下出版が舗装した、という話である。
アンシャン・レジームのもとでは出版は、政府の検閲を経てギルド的な組織により印刷・流通される「表」の出版と、そうした表の機構の外にある地下出版に分かれていた。
このような二分割体制のもとでは、地下出版は体制憎悪の培養器になる。「表」で既得権益にありつけなかった連中が地下出版に集まり、アンシャン・レジームの既得権益を満喫している連中を攻撃するからだ。
政府が地下出版への締め付けを強めると、体制への攻撃はいっそう激しくなる。なぜなら締め付けが緩いうちは、地下出版といっても海賊版などのローリスク・ローリターンな商売が多くを占める。締め付けが強まると、地下出版業者はハイリスク・ハイリターンの領域へと追いやられ、真正面から体制を攻撃する誹謗文書等を増やす。これは、フランス革命直前の数年間に、実際に起きたことだった。
政府がどれほど誠実に情報公開に取り組んでも、またどんなにイメージアップに躍起になっても、そうした政府側の言論はみな検閲済みの「表」の言論にすぎないので、「裏」の下劣な嘘のほうが真実として受け取られる。検閲済みの出版物が「バスチーユは空っぽだ」と書き、地下出版物が「バスチーユは政治囚で満杯だ」と書いている世界で、どうやって前者が正しいと信じられるだろう。
言論の二分割体制を敷いた国はしばしば、「表」の誠実な言論が「裏」の下劣な誹謗に打ち負かされる、という末路をたどる。
たとえばソ連末期の「地域間グループ」は地上げ屋のようなごろつきの集まりだった(参考資料)が、党がそのことを『プラウダ』紙上でいくら力説しても、人々は「表」の言論を信じなかった。
言論の二分割体制のもとでは、「表」は「裏」に敵わない。となると、政府がとるべき手段はただひとつ、恐怖政治だ。アンシャン・レジームやパフラヴィー朝イランには、本格的な恐怖政治へと突き進む覚悟がなかった。ボリシェヴィキやホメイニにはその覚悟があった。
言論の二分割体制に近づけば、ボリシェヴィキやホメイニが近づいてくる。
アニメ・漫画・ゲームも「準児童ポルノ」として違法化訴えるキャンペーン
とはいえ、日本ユニセフ協会のタコ踊りはおそらく問題ではない。彼らはしょせん現実の政治経済から遊離した存在にすぎない。当面の差し迫った危険は、いわゆる「ゾーニング」にある。
いわゆる「ゾーニング」は、ポルノ業者が推進している運動だ。ポルノ業者は現実の政治経済に根付いた存在であり、「裏」の言論を作り出すだけの能力を備えており、すでに事実上作り出している。そしてゾーニングにおいても、「表」は「裏」に敵わない――中規模以下のギャルゲーは18禁マークによって採算性が高まる、という現実がすでに存在している。男性向けの性表現の小さからぬ部分は、ポルノ産業の支配下にある。
(「性表現=勃起射精」という思考パターンがすでにポルノ産業の支配下にある)
人類が検閲の悪を悟るまでに数世紀を要した。検閲がひとつの例にすぎないことを――言論の分割が悪であることを悟るまでに、あと何世紀かかるのだろう。