禅の公案は、世間知を超える思考回路を持たないと答えられないようにできている(らしい)。だから「隻手の声」のように、門外漢にはわけがわからない問題になる(らしい)。
が、どう考えても、「そりゃ当たり前だろ」と思える公案もある。それが「婆子焼庵」だ。
修行僧の答えはもう見るからに「あちゃー」だ。「私は修行のできた立派な僧だから、誘惑されても心は揺らがない」と自分の出来のよさを自慢するだけで、娘の苦しみ(仏教なので、悟りを開いていない人間はみな煩悩に苦しんでいると想定しているはず)を救うどころか、目にも入っていない。お前は中学生か。まさに俗物、婆さんがキレるのは当たり前だ。
ところがこれは、公案のなかでも特に難しいものとされているらしい。
アドリブでいい返事(相手を救いに導くようなもの)をするのは難しいだろうが、公案はいくら考えてもいいのだから、そう難しいとは思えない。なにが難しいのかわからないところが難問たる所以なのか。
ところでこの公案は大乗仏教からの小乗仏教への批判でもあるらしいが、性欲の全側面を煩悩とみなすのは、大乗側のフレームアップのような気がする。