もしかすると都市伝説かもしれないが、かつてこんな話を聞いたことがある。
東南アジアでは昔、昭和時代の仮面ライダーのことを「殺人テレビ」と呼んでいた。なぜかというと、子供たちがライダージャンプの真似をして死傷する事故が多発したからだ、と。
規制ばやりの昨今なら、たちまち「子供が真似するようなライダージャンプは禁止せよ」ということになるだろうし、またそうなったからといって別に特撮番組がひどく困ることもないだろう。カメラが撮るべきものは無限にあり、そのうち百や二百を禁じられたところで屁でもない。
しかし私がライダージャンプから汲み取る教訓はそこではない。「読者はヤバい」――これが私にとっての教訓だ。
読者は、作者の命じるままに泣いたり笑ったりする従順な部下ではない。部下どころか敵兵士であり、それも、作者の狙いをくじくべく神出鬼没の奇襲攻撃を繰り返す、優秀なゲリラ兵だ。読者はゲリラ兵、だから義経のひよどり越えどころか、自爆テロ(=ライダージャンプ)さえやってのける。
作者の想像を絶するような解釈をされるだけなら、面白いだけで、なんの痛痒も感じない。その解釈というのが、「これは××の盗作だ」という訴訟であろうとも、やはりそれは解釈だ。どんな解釈であれ、解釈というゲームにとどまるかぎり、それは作者が最初から合意していることだ。
それに対して、作者が合意どころか夢にも思わないこと、到底合意しかねることを突きつけるのが、ライダージャンプである。「読者は解釈ではなく現実を突きつける」と言ってもいいだろう。
どれほど無難そうなものを書いても、読者がいるかぎり、ライダージャンプを完全に回避することはできない。
あなたがブログに書いたチャーハンのレシピから、秘密結社の暗号を読み取って解読し、その結果、世界平和のためにあなたを殺さなければならないと信じるに至る妄想狂の読者だっているかもしれない。そんな現実が襲ってきたとき、それに合意する人はいないだろうし、そんな可能性を想定したうえでブログにチャーハンのレシピを書く人もいないだろう。
ライダージャンプは現実、すなわち「想定外」である。想定外のリスクを管理しようとする試みは、「管理できているはず」という幻想しか与えない。むろんスーツの世界では幻想こそが現実であり(だからこそ金融危機というものが起こった)、安全幻想を与えることはスーツ的には重要な仕事となる。「子供が真似するようなライダージャンプは禁止」という規制を百も並べて、規制が増えたぶん安全になった、という幻想を与えるわけだ。
しかし作者にとっては安全幻想はそもそも馬鹿げた話だ。書かなければいい。読者がいなければ、読者が現実を突きつけてくることもない。
にもかかわらず私は書いている。なぜ。
ライダージャンプが現実であるのと同じレベルで、書くことも現実であるからだ。
読者は解釈ではなく現実を突きつける。それと同じように、作者はテクストではなく現実を突きつける。
これは実際にそうなっているというだけでなく、そうあるべきでもある。ライダージャンプを突きつけられたとき、もし作者が「私はテクストと解釈のゲームをしているだけだったのに」と言い訳するなら、それは幼稚で卑怯な態度だ。倫理的に問題がある、と言ってもいい。
現実として書く。
すなわち、ライダージャンプの真似をするように書く。
すなわち、妄想狂となって書く。
そのように書くなら、たとえライダージャンプの真似をして死ぬ読者が発生しても、あるいは妄想狂の読者が私を殺しにきても、「どうしようもない」という絶望のドン詰まりを味わえるだろう。「私はテクストと解釈のゲームをしているだけだったのに」などと言い訳するのではなく。
倫理的であるとは、絶望のドン詰まりを味わうことを意味する。現実は常にどうしようもない絶望のドン詰まりである。
というわけで、昨晩の出来事について。
詳細は申し上げられないが、私はライダージャンプ級の自殺行為を敢行してきた。
もちろん現在の気持ちは、絶望のドン詰まりである。どうしようもなかったし、今でもどうしようもない。これが書くということの醍醐味だ。
しかし自殺行為といっても物のたとえで、命まで取られるわけではない。私の人生は続くし、書くことも続くだろう。お楽しみに。