2009年03月08日

なのフェイはセックスレスのほうが萌えるのではないか?

 『なのはStSにおけるなのフェイは、セックスレスのほうが萌えるのではないか?』との議案が私の脳内会議に提出され、審議された。
 審議の結果:否決

 
 議案の論旨は以下のとおり。
1. なのフェイには擬似親子関係的なニュアンスがある
2. 性行為の侵襲性は、擬似親子関係にはそぐわない
3. 作中には、なのフェイの性行為は、キスさえ出てこない
 
 まず、論旨2については満場一致での合意をみた。
 性行為の侵襲性を演出するには、当事者間に十全な批判的判断力が備わっていなければならない。もし判断力に欠けるところがあれば、性行為の侵襲性への認識も不完全なものになり、読者の側にすっきりしない感情を残すことになる。もしこの方法を徹底するなら、ブレヒトの『異化』のような啓発的な意義を持つだろうが、これは萌えとは言いがたい。
 
 かくして論旨1が争点となった。
 フェイトの周囲の人間関係は円満であり、一般的な人間関係のなかではフェイトには十全な批判的判断力があると解釈できる。しかし、なのはに対するときのフェイトは、十全な判断力を備えていると解釈できるか? 判断停止の匂いを感じないだろうか?
 問題を難しくするのが、なのはの無謬性である。
 なのはは、人間関係のなかの具体的な存在というよりは、抽象的な理念として機能している。人間関係による問題を抱えるのは、常になのは以外の誰かであり、なのは自身の問題は登場しない。これがなのはの無謬性である。このため、フェイトがなのはに対して無批判であるように見えるのは、なのはが無謬だからなのか、それともフェイトの判断停止なのか、区別がつかないのだ。
 
 ここで議案に説得力を与えるかに見えるのが論旨3である。
 なのフェイが日常的に性交渉を持っていると推定すべき根拠が作中に提示されている(同居し、同じベッドで寝ている)にもかかわらず、性行為そのものはキスさえ描かれないのは、なぜか? 制作者が、そのような必然性を感じていたからではないか?
 ここで注目すべきは、なのはが『抽象的な理念として機能している』という点だ。なのはを抽象的な理念として演出するうえで、性行為の描写は邪魔だったのではないか。理念は性行為をしない。性行為そのものが描かれないことをもって、擬似親子関係を導くことはできない。
 (こうした一貫性が、なのはを単純な「主人公マンセー」から一線を画している。単純な「主人公マンセー」は、作者の鈍感さが主な原因である。作者が鈍感で、作品自体に内在する論理を読み取れず、作者の願望による場当たり的な介入を許すとき、「主人公マンセー」に陥る。「主人公マンセー」とは、作品の一貫性を損なうような場当たり的な介入によって生じる不快感を表現する言葉だ。主人公が超人的存在であるからといって、あるいは作者の願望が反映されているからといって、「主人公マンセー」とはいえない)
 
 議論は論旨1に戻った。
 いまや、抽象的な理念としてのなのはを、擬似親子関係を結ぶなのフェイへと読み替えることの、妥当性と魅力が問われている。もし答えがイエスなら、議案にもイエスということになる。
 この読み替えに焦点が絞られたとき、反対派から有力な反対意見が出された。
 いわく、擬似親子関係は、将来における崩壊を予定したものでなければならない。子が判断停止をやめたときに展開される光景(およびその予感)こそが、擬似親子関係の魅力の核心である。しかるに、なのはは無謬なので、フェイトが判断停止をやめてもなにも目新しい光景は現れない。そのため、なのフェイを擬似親子関係に読み替えることは魅力がない。
 この反対意見に対して、「なのはを腹黒に読み替える」という案が出された。なのはが抽象的な理念に見えるのは、なのは自身の策略が奏功した結果である、と読み替えるものだ。なのはの策略が露見したとき、フェイトは判断停止をやめる、ということになる。
 しかしこの腹黒案に対して、「策略には綻びがあるべきだ。フェイトに対する性行為は、そのような綻びとして魅力的だ」との批判が出された。これにより腹黒案は退けられ、議案は否決された。
 
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Posted by hajime at 2009年03月08日 09:46
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