のたうちまわるほど感動した! 『アートの仕事』(平凡社)120~121ページより。
都築 最後に、僕が毎回、レクチャーの最後に見せてるヴィデオがあるので、これを見てください。関西の長寿番組『探偵ナイトスクープ』という番組で昔、放映されたものです。北陸に東尋坊という景勝地があって、すごい崖で、自殺の名所でもあるんだけど、そこに名物のおじさんがいて崖から飛び降りるんですよ。見たことある人もいると思いますが、ここでまた感慨を新たにしていただきたい。
(ヴィデオを見る。ドリャーおじさんが、「ドリャー!」と叫びながら、何度も崖から飛び降りる姿を映す。最後に、「なぜ、飛び込むのか?」と聞かれ、「前は健康のため、とか言ってましたけど、やっぱり、キザな言い方ですけど、男のロマンですね」と語る)
都築 僕はこれ、もう100回は見てるんですけど、見るたびに、頭が下がるんですよ。すごいと思うんだよね。ドリャーおじさん、地元の名物だけど、決して尊敬はされてないと思う。子供がいたら、確実にイジメにあってるみたいなさ。「おまえのとうちゃん、ドリャーやろう」って。けど、アーティストって、こういう人だと思うんですよ。みんな観光で東尋坊に行って、崖のところまでは行くけど、「さあ、早く旅館に帰って、温泉入って、美味しい甘海老食べよう」みたいになるわけじゃない。僕もそうしてきたし、危険なところには近寄らないで、帰って来いって教えられてきた。でも、なかには、こうやって飛び込んじゃう人がいるわけよ。飛び込むと、死が待ってるかもしれないけど、たまには、こういう、前人未到の世界に行くこともある。ゴッホだって、同じことをやってたわけですよ。生きてる間は、1枚も絵が売れなくてさぁ。やっとゴーギャンという友達ができたと思ったらすぐにケンカして、ショックで耳切り落とす、みたいな人が、実際に自分のまわりにいたら困ったもんだと思うけど、でも、死んだ瞬間に、ゴッホはトップ・アーティストとして扱われた。これと同じことは、アートの世界ではいろんなところで起こってる。アートっていうのは、そういう危険な要素があるものなんですよ。危険なところまで行かないと、面白くない。美大に行ってる子が、卒業してアーティストになるって親に言っても「アートはいいから、就職しなさい。アートは日曜にやればいいでしょ」って言われたりしがちなんだけど、でも、そんな安全なところでできることじゃないと思うわけ。ドリャーおじさんの精神を見習ってほしい。まぁ、人それぞれだし、いろんなやり方がありますけど、根底にはこういうスピリットがないと意味ないと思うんだよね。アートって、労多くして報われない世界ですよ、本当は。みんなも崖っぷちに立つことって絶対あると思うんだよね。今、崖っぷちの人もいると思う。そんなときは、「ドリャー!」と叫んで飛び込んでみたら、見たことない領域に行けるかもしれない。ってことを、今日は言いたかったわけですね。どうか、人の言うことを聞かない立派な人間に育ってください。ちなみに、ドリャーおじさんにインタヴューしたくて探してるんだけど、ここ4、5年、消息不明なんだよね。こういう人たちは、どんどんいなくなっちゃうんだよ。
ちなみにドリャーおじさんへのインタビューはその後実現したらしい。
これを読んで私はドリャーおじさんになることを決意した。いや、未来において「なる」のでは生ぬるい。今この時点において、「私がドリャーおじさんだ」と言わなければならない。昔、声優オタで桑島法子ファンの友人が、「俺が桑島法子だ」と主張していたが、今はその気持ちがよくわかる。
さて、ドリャーおじさんたる私に言わせれば、この講師(都築響一)の理解は不十分だ。ドリャーおじさんの飛び込みは、『みんなも崖っぷちに立つことって絶対あると思うんだよね』などというものではない。常識的な感覚で認識されるような崖っぷちに飛び込んでも、それこそ「脱サラしてラーメン屋を開く」ようなものにしかならないだろう。ドリャーおじさんの飛び込み、それはライダージャンプだ。
ライダージャンプの真似をした東南アジアの子供たちは、常識的な感覚で認識されるような崖っぷちに立っていたわけではない。ドリャーおじさんも同じだろう。彼らは確かに崖っぷちに立ったのだが、その崖は、常識的な感覚では認識できない、不条理の世界にある崖だ。ライダージャンプやドリャーおじさんの飛び込みは、人間存在の根底にある不条理が立ち現れてきた姿なのだ。不条理の世界を衝撃的に突きつけてくるその姿、そこにドリャーおじさんの感動があるのだ。
というわけで、「私がドリャーおじさんだ」といっても、東尋坊に行って飛び込み2万回を目指すわけではない。それでは倶胝竪指の、指を切られた侍者になってしまう。飛び込むのが東尋坊でなくても、あるいは物理的な崖でなくても、やはり同じことだ。問題は行動ではなく認識にある。自分自身がすでにライダージャンプしている存在だと認識すること、それが「私がドリャーおじさんだ」の意味であり、だから『未来において「なる」のでは生ぬるい』のだ。
わざわざ東尋坊に行って飛び込むまでもなく、私たちはみな現在すでに、『見たことない領域』に生きている。問題は、それに気づくかどうかだけだ。
…というわけで、明日発売の私の新刊『いたいけな主人』をぜひお手元にどうぞ。