第一次大戦前に書かれたある小説から引用する:
「私はある魔法の杖を知っているのです。ただ、それを正しく使える人はひとりかふたり、それも、ほんの稀にしか使えないのです。それは、世にも恐ろしい魔法の杖で、それを使う者以上に強力です。これを使うことはしばしば恐ろしく、ときには悪です。しかし、これに触れられたものはすべて、二度とふたたびもはや平凡なものではありえません。それに触れられたものはすべて、この世ならぬ魔力を授かるのです。もし私がこの魔法の杖で、ノッティング・ヒルの鉄道や道路に触れれば、人びとはそれらを永久に愛したり畏れたりするようになるでしょう」
「いったい何のことを言っているのかね?」と国王は尋ねた。
「その力でこれまでも、つまらぬ風景は絶景となり、あばら屋は大聖堂をしのぐにいたりました」と狂人はつづけた。「とすれば、どうして同じように、ロンドンの街灯がギリシャの灯より美しくならないことがありましょうか? 乗合馬車が極彩色の山車のようにならないことがありましょうか? それが触れれば、造り主の指のように、すべてを不思議な完成へともたらすのです」
「君の杖とは、何だね?」国王はしびれを切らして叫んだ。
「これです」とウェインは言って床を指さした。そこには彼の剣が光を放って横たわっていた。
「剣か!」と国王は叫んだ。それから、ひと跳びして玉座に跳ね上がった。
「そうです、そうですとも」とウェインはかすれ声で叫んだ。「それの触れたものは、卑しくなくなります。それが触れたものは――」
G.K.チェスタトン『新ナポレオン奇譚』(ちくま文庫)114~115ページより。
さて話は、TVアニメ『咎狗の血』と少コミに飛ぶ。
私が「少コミを読む」をやっていたあいだ、少コミの作中に暴力が登場するたびに、「コレジャナイ」という強い違和感を覚えた。とはいえ暴力は専門外なので、深くは追及せずに忘れていた。そして先日、わけあって『咎狗の血』の最初の数話を見たとき、あの違和感をふたたび覚えた。
あの違和感は少コミ特有のものではなく、少女まんが一般に広く見られるものかもしれない。とすると、私の専門外ではあるものの、この問題は一考に値するかもしれない。
結論から言えば、少女まんがにおける暴力には、魔法の杖への畏怖がしばしば欠けている。
魔法の杖への畏怖とはどんなものか。それはたとえば、戦いのルールや制限への執着として表れる。少年まんがのバトル物はしばしばルールや制限を煩雑なまでに強調する。魔法の杖の力を縛るためだ。また『バキ』が時々やるように、ルールや制限のない戦いを虚空の恐怖として描くこともある。
少年まんがに描かれるケンカ、それも特に明示的なルールのない突発的なケンカでは、主人公は多くの場合、相手を挑発するのを避けつつ、先に手を出させる。これは主人公の強さを強調するためでもあるが、軽々しく魔法の杖を振るう愚かさを主人公に与えないためでもある。逆にそういう愚かな主人公が描かれることもあり、たとえば『バクネヤング』はとりわけ印象深い。
愚かではないはずの人物による軽々しい挑発、ルールや制限を示さないまま安易に描かれる暴力――それだけが問題なのか、というと、そうではない。問題はもっと深いところにある。
問題は、魔法の杖の力が、ほとんど人知を超えていることだ。どのようにアプローチしても、群盲象を撫でるのが精一杯だ。「それは、世にも恐ろしい魔法の杖で、それを使う者以上に強力です」。この杖を使いこなすことはもちろん、杖の力を完全に把握することさえも、おそらく人間にはできない。人間はみな、この杖の支配下にある。
私も群盲のひとりとなって、杖の力の一端を示してみよう。もしかすると読者諸氏のうち何人かは、杖の力によって目をふさがれていて、私の言うことがまったく理解できないかもしれないが。
日中戦争の発端、盧溝橋事件直後の経過に例をとろう。7月7日の盧溝橋事件から国民党政府は日本に対して強硬姿勢を取り、8月13日には第二次上海事変を起こして、日本の植民地支配に軍事的に挑戦した。さて、「植民地支配に軍事的に挑戦した」と書けば、まるで大東亜戦争のお題目のようで正義らしく聞こえるが、当時の日本の世論は当然ながら日本に悪役を振ったりしなかった。「国際法と信義に反して我が国の権益を奪おうとする国民党政府を膺懲すべし」である。
「植民地支配に軍事的に挑戦」と「国際法と信義」が戦って一方が勝つ――いつもそんな具合にいくのなら、魔法の杖もさほど恐ろしくはない。現実はあのとおりの有様だ。因果関係はわかるが、意味がわからない――それが杖の力だ。
魔法の杖は、筋書きを壊し、役割を壊し、意味を壊す。だから魔法の杖はどんな筋書きにも収まらない。だから、杖の力は、ほとんど人知を超えている。
魔法の杖が、筋書きと役割を壊す可能性を、どれだけ意識しているか。
少女まんがにおける暴力の「コレジャナイ」感は、この意識の欠如を本質とする。愚かではないはずの人物による軽々しい挑発や、ルールや制限を示さずに描かれる暴力は、現象にすぎない。
ひとつ解決したところで、次の問題――なぜ少女まんがなのか。
現在の少女まんが、それも特に少コミやBLは、登場人物の役割について、ある特有の態度を示している。それはフィクション一般と比べて特異なものであり、また歴史的にも最近(乙女ちっく以降)のものである。それは、登場人物の役割に多義性を許さない、という態度だ。
フィクション一般での態度はたとえば、『ドン・キホーテ』のヒネス・デ・パサモンテとペドロ親方に見られる。前篇、獄中の囚人にして自伝を書けるほどの教養人のヒネスは、脱獄させてくれたドン・キホーテに石を投げる忘恩者でもあるが、それは脱獄逃亡中のヒネスの立場からすると無理からぬところでもある。後篇、人形芝居一座のペドロ親方は、狂気のドン・キホーテに鷹揚かつ親切にしてくれる。ドン・キホーテは気づかなかったが、二人は実は同一人物であり、ヒネスは以前に受けた恩をそっと返してくれていたのだった――
ヒネスの役割は何かと問うても、けっして一言では片付かない。囚人・忘恩者だから悪役、あとで恩返しするから善玉、という二項対立だけではない。教養人としての面は、人形芝居一座の親方として再登場することで強調されている。悪役という役割にしても、ヒネスが置かれた状況のしからしめるものであり、犯罪をただ犯罪として、忘恩をただ忘恩として非難することはできない。ヒネスの役割は多義的なのだ。
わかりきったことをくどくどと説明しているように聞こえただろう。登場人物の役割が多義的なのは、どんな素朴な娯楽読み物でも当然であり、それがなければ退屈、という程度のことだ。悪の魅力あふれる悪役はみなこうした多義性を帯びている。
しかし、現在の少女まんが、それも特に少コミやBLのように恋愛にフォーカスしたジャンルでは、悪の魅力あふれる悪役を見ることはまずない。
乙女ちっく以降の少女まんがの恋愛はしばしば、登場人物の役割に多義性を許さない。それは乙女ちっくがモノローグの世界であることと深く関係している。ここでは登場人物は、トルストイでのように道徳性を採点されるわけではないが、そのかわりにと言うべきか、役割を与えられる。トルストイが登場人物につける道徳点が「0点かつ50点かつ100点」ということがないのと同じで、乙女ちっくの登場人物の役割は一義に定められる。
登場人物の役割に多義性を許さない世界では、魔法の杖への畏怖を表すことができない。杖の力によって役割が壊される可能性を、世界観の外へと追い出しているからだ。
筋書き・役割・意味を一義に定めることは、フィクションの世界でさえ、このような問題を引き起こす。ましてや、現実の出来事を眺める際にそんなことをしたら、ひどく安易な気持ちで魔法の杖を持ち出すようになるだろう。
少女まんがにおける暴力を見て、「コレジャナイ」と感じるたびに、私は身の危険を覚える。