2011年01月18日

『ボヴァリー夫人』

 中学の国語の副読本に載っている「文学史年表」的なものを見て、そこに挙げられている作品を片っ端から読んでいく――などというエクストリームな読書を試みる人は少ないだろう。文学史年表は都道府県名のリストのようなものだ。47都道府県を、ただリストに名前が挙がっているからという理由だけで踏破する人は稀だろう。固有名詞としては当然知っているが、実際に読むのは、必要や興味があるか、よほど面白そうだと説得されたときだけだ。
 たとえばソルジェニーツィン。私はソ連マニアなので読んだが、作品というよりは症例である。
 「〈ソヴィエトの〉という言葉は共産主義大ロシアの攻撃的ナショナリズムのみならず、反体制派の民族的郷愁にもうってつけのものである。この言葉によって反体制派はこう信じることができるのだ。つまり、ある魔術的行為によって、ロシア(真のロシア)はいわゆるソヴィエト国家から姿を消し、一切の糾弾をまぬがれて、もとのままの汚れのない本質として永続する、と。ナチの時代のあとの、外傷を負い有罪とされたドイツの良心。トーマス・マン、ドイツ精神の容赦ない告発。ポーランド文化の成熟、すなわち〈ポーランド性〉を楽しげに辱めるゴンブローヴィッチ。ロシア人が、その汚れない本質である〈ロシア性〉を辱めることなど考えられない。彼らのなかにはひとりのマンも、ひとりのゴンブローヴィッチもいない」(ミラン・クンデラ『小説の精神』(法政大学出版局)175ページ)
 というわけで私は、ソルジェニーツィンを褒める人を信用しない。クンデラのように的確にけなす人にはボーナスポイントをつける。『小説の精神』は、ソルジェニーツィン以外の件でも完璧に私の心をつかんだ。

 『小説の精神』で重要視されている作家のなかで、文学史年表に名前が出ていてしかも個人的にノーマークだったのはただひとり、フローベールだった。
・「フローベールとともに、そのときまで未知の地であった日常生活を探査し」(5ページ)
・「エンマ・ボヴァリーにとって、地平線は狭められて一箇の囲いに似たようなものになってしまいます。冒険はこの囲いの彼方にあり、ノスタルジーは耐えがたいものになります。日常生活の倦怠のなかで、夢や夢想が重要なものになります。外部世界の失われてしまった無限に、魂の無限がとってかわります」(10ページ)
・「日常生活についてのフローベールの発見」(15ページ)
・「一八五七年(そうです、『ボヴァリー夫人』が出版された特筆すべき年です)」(73ページ)
・「どちらが正しくてどちらが間違っているのか。エンマ・ボヴァリーは我慢のならない女なのか、あるいは勇敢で人の心をうつ女なのか、(中略)小説を注意ぶかく読めば読むほど答えることはできなくなる。というのも、小説は定義上、イロニーの芸術であるからだ。つまり、小説の〈真実〉は隠されており、表ざたにされず、また表ざたにされ得ないものなのである」(154ページ)
・「小説家の三つの基本的な可能性。(中略)彼は物語を叙述する(フローベール)」(162ページ)
・「『ボヴァリー夫人』。小説がはじめて詩の最高度の要求(「何よりも美を探求する」という意図、個々の特殊な言葉の重要性、テキストの強度の旋律、細部のひとつひとつに適用される独創性の要請)を引き受ける用意ができる」(171ページ)
・「フローベールは愚かさを発見しました。私はあえて申しますが、これこそ、おのれの科学的理性をかくも誇りに思っていた世紀の最大の発見です」(189ページ)
 ソルジェニーツィンをああも的確にけなした人に、これほど重要と言われたら、読まないわけにはいかない。
 で、読んでみた。テキストは生島遼一訳。原文はこちら。副読本として工藤庸子『恋愛小説のレトリック』(東京大学出版会)を先に読んだ。
 
1. 冒頭だけで使われる一人称複数「私たち nous」(7・8・10・14ページ)
 「私たち nous」が使われている区間でも、できるだけ「私たち nous」と書くのを避けているような節があるのにも注目。たとえば10ページ「一同また静かになった。Tout reprit son calme.」。
2. 「私たちのだれも、この少年のことをいまでは思い出す者はあるまい」(14ページ)
3. 「式後二日たつと夫婦は出発した。シャルルには患者があるのでこれ以上留守にしておけなかった。ルオー老人は家の馬車で二人をおくらせ、自分もヴァッソンヴィルまでついてきた。そこで娘にわかれのキスをし、車を下りてひきかえした。百歩ばかり歩いて、老人はとまった。馬車がだんだん遠ざかり、車輪がほこりの中にまわっているのを見て、大きなため息をついた。そして、自分の結婚のときのこと、若かったときのこと、妻がはじめて妊娠したときのことが頭をかすめた。新妻を実家から自分の家へつれてかえった日、妻を馬のうしろに乗せて雪の上を行ったとき、自分もあのときはたのしかった。あのとき、クリスマスごろで野原は真っ白だった。妻は片腕で彼にすがり、もう一方は手籠をさげていた。コー地方の風俗の頭巾についた長いレースが風にゆられ、ときどき口にあたっていた。彼がうしろむくと、肩のすぐそばにばら色した妻のちっちゃな顔があった。頭巾についたまるい金のバッジの下でしずかに笑っていたものだ。彼女は指を温めるために、ときどき、彼の胸のところへ指を入れてきた。みんな、みんな遠いむかしのことだ。男の子が死ななかったらもう三十になっているはず。ルオー老はふりかえる。道の上にはもうなにも見えなかった。ふと空家のようなさびしい気持ちにおそわれた。大酒宴でぼんやりした頭のなかで、陰気な考えにあまくやさしい追憶がまじりあった。教会のほうへまわってみたい気持ちが湧いた。が、聖堂を見たりするといっそう悲しくなりそうで、まっすぐ家に帰って行った」(39ページ、一部直訳に改変)
4. 「それに彼女はどんなことにもどんな人にももう軽蔑をかくさなかった。人のいいということを悪いといい、邪しまな不道徳なことをいいといい、奇妙な意見をはいた。夫は目をまるくしておどろいた」(80ページ)
 
 1と2は人目をひく問題である。フローベールは徹底的に書き直す作者だったので、うっかりやったとは考えられない。謎をかけた作者の得意げな顔が目に浮かぶ。
 作品の大部分は「私たち nous」など使わず、かといって作者や語り手も「私 je」としては登場しない、よく考えると不思議なあの形式で書かれている。冒頭だけ「私たち nous」を使ったのはなぜなのか。
 2の前後をよく見ると、このセンテンスを取り払っても、シャルルが置かれた現実についての情報はほとんど変化しない。このセンテンスは、シャルルと語り手と「私たち nous」の関係だけを語っている。また、2の「私たち nous」は位置的にも孤立している。7・8・10ページと固まって登場したあと、この1か所だけぽつりと使われ、これを最後に「私たち nous」は使われない。
 こういう「私たち nous」は、いわば影の主人公として読める。『ボヴァリー夫人』は、シャルルやエンマやトスト(ボヴァリー夫妻が暮らすフランスの片田舎)だけでなく、「私たち nous」の話でもある、というわけだ。しかし「私たち nous」はおそらく語り手ではない。思い出すことがないのだから、語り手としては想定しがたい。「私たち nous」は、シャルルやエンマやトストと同様に、書かれる対象として存在する。
 語り手と「私たち nous」の関係は、エンマと華やかなフィクションの世界の関係に似ている。
 
a. エンマにとっての現実は、シャルルやトストだけでなく、ハリウッド映画のように華やかなフィクションの世界によっても構成されている。エンマは前者と後者を同格に扱っているだけでなく、後者を規範とみなしている
b. 華やかなフィクションの世界はエンマの前に、影(=本)と片鱗(=ダンデルヴィリエ侯爵の舞踏会)しか現さない
c. 華やかなフィクションの世界はエンマの興味と想像力の産物である。にもかかわらず、エンマはそれに対してほとんど無力であり、一方的に影響を受ける(=疎外)
 
A1. 語り手にとっての現実はテキスト
A2. 「私たち nous」が直接語ることにより、「私たち nous」は語り手と同格の地位を得て、テキストという現実=外界の構成要素となる
B. 「私たち nous」は片鱗(=冒頭の数か所)とそれによる影(=作者の強い意図を推測させる退場・不在)しかテキストに現れない
C1. 「私たち nous」はシャルルやエンマやトストと同様に、語り手によって書かれる対象であり、語り手の想像力の産物である
C2. 語り手は自分自身の産物である「私たち nous」に対して無力か? 一方的に影響を受けているのか?
A3. 語り手は「私たち nous」を規範とみなしているか?
 
 C2の問いにouiと答えるべき根拠はあるだろうか。
 エンマの憧れる華やかなフィクションの世界は戯画的に語られ、それに対するエンマの憧れも読者の苦笑を誘う。だが「私たち nous」に対する笑いはどこにも感じられない。この差はどこから来るのか。C2の問いが、全面的ではないにせよ、ある意味でouiだからではないか。
 そして、2だ。「私たちのだれも、この少年のことをいまでは思い出す者はあるまい」(14ページ)というセンテンスを、前後の脈絡からは引き出されない場所に、ぽんと投げ込むその手つきを見ると、作者の得意げな顔が目に浮かぶ――しかしその顔が、華やかなフィクションの世界を規範に掲げるエンマの顔と、二重写しになって目に浮かぶのは私だけだろうか。
 華やかなフィクションの世界から疎外されるエンマの姿は、小説という水槽(『小説の精神』120ページ)のなかでは滑稽で物悲しい。しかしこの魔法の水槽は、語り手と「私たち nous」の関係においては機能していない。語り手にとって「私たち nous」は、シャルルやエンマやトストとは異なる特権的な地位にあるのではないか。その特権はA3を意味するのではないか。
 こう考えてみると、『ボヴァリー夫人』への古典的な評価が、違った意味を帯びてくる。アルベール・チボーデ流の「厳正な客観描写をもって分析表現し、リアリズム文学の旗印となった」(生島遼一訳の裏表紙)という評価は、語り手だけでなく読者も「私たち nous」に疎外されているがゆえに、小説という水槽の選択的な機能不全(華やかなフィクションの世界は笑うのに「私たち nous」は笑わない)が見えなかったことを意味するのではないか。
 クンデラの言及をよく見ると、チボーデ流の評価はまったくしていない。そのかわり技の冴えや発見を評価している。クンデラにとってもやはり、チボーデの強調した点は評価に値しない点らしい。
 だが私にとってはこれは、評価に値しない点であるばかりか、『ボヴァリー夫人』は読むに値しない作品である、と思える。華やかなフィクションの世界は笑うのに、「私たち nous」は笑わない――それは、小さな弱いものを笑い、大きな強いものにはへつらう、不愉快な態度にしか見えない。
 
 3は一見いかにも小説的なパラグラフに見える。エンマが読みふけるような華やかなフィクションの世界に置けば、なんの問題もなく通用するだろう。しかし、その華やかなフィクションの世界を笑う世界に置かれては、問題なしとはできない。
 「大きなため息をついた。 il poussa un gros soupir.」とはまたご挨拶な紋切型だ。直後に続く紋切型ラッシュに、どういうつもりなのかと目を回していると、「彼女は指を温めるために、ときどき、彼の胸のところへ指を入れてきた。 Pour se rechauffer les doigts, elle les lui mettait, de temps en temps, dans la poitrine.」とくる。
 胸のところへ指を入れたのは、指を温めるためだと、なぜ言えるのか。彼女が「指が凍りそう」と言ったからなのか。ではなぜそう書かないのか。「指が凍りそう」と言って、胸のところに指を差し込む――そのニュアンスは、テキストの断言とは微妙に、しかし決定的に異なる。
 もしこれが語り手の直接描写なら、すべての責は語り手が負う。しかしこれはルオー老人の回想であり、指を温めるためだと鈍感にも断言したのはルオー老人ということになる。この鈍感さは紋切型ラッシュとも一貫性がある。つまり3のパラグラフは、ルオー老人を鈍感で、芯から紋切型にとらわれた人間として描き出した、ということになる。
 クンデラの言うとおり、見事な技術だ。しかし私は胸糞が悪くなった。語り手の態度はあまりにも同情に欠けるように思える。何事にも神のごとく超然と構えて同情しないのではなく、「私たち nous」にはへつらい、ルオー老人にはこれなのだ。私は読み続けるのがますます辛くなった。
 
 そして私は4を見て、ついに読むのをやめた。
 エンマが具体的になにを言ったのかを、語り手は書かない。もしエンマの言葉をテキストに配置していれば、それは多様な社会的背景を持つ読者に、多様な反応を引き起こしただろう。「エンマの言うとおり! 田舎ってこれだから嫌だ」「なかなか穿った見方だ」「自分にも身に覚えがある」「どうしようもないけれど威勢はいいね」などなど。こういう反応を身のうちに喚起させられつつ、他のありうる反応にも想像をめぐらせる――これこそフィクションを読むことの(もっとも素朴な)快である。4は、そういう快の源泉として、作家ならけっして見逃すはずのない瞬間だ。ましてや徹底的に書き直すフローベールには、考え直す時間はたっぷりあったはずだ。しかし語り手はそれを許さず、エンマから言葉を取り上げた。
 「エンマ・ボヴァリーは我慢のならない女なのか、あるいは勇敢で人の心をうつ女なのか(中略)小説を注意ぶかく読めば読むほど答えることはできなくなる」とクンデラは言う。おそらく、この問題についてはその通りなのだろう、私は読んでいないが。この問題だけでなく、小説的なイロニーを大盛りに盛ってあるのだろう。意識的に、見事な技術をもって。
 しかし4を読んだとき、すべては藁人形の上の話だと私は確信した。作者は、藁人形の上にイロニーを大盛りに盛ったにすぎない。
 あまりにもたくさん余計なものがくっつき、あまりにもたくさん余計なことをしゃべるので、隅々まで作者の意図に従えることが不可能で、どうかすると作品自体よりも賢く面白い――そんなややこしくも魅力的な代物を書く気はないのだ。作者の意図どおりの藁人形を打ち立てることを望み、そのためにフィクションの快を捨てるのだ。
 かくして私は、テキストの5分の1も読まないまま、こうして『ボヴァリー夫人』を弾劾している。
 
 私の読みが妥当かどうかといえば、おそらくあまり妥当ではない。
 「『ボヴァリー夫人』の作中人物は、埃に見とれる人間とそうでない人間とに二分されるのだそうです.(中略)ルオー爺さんも,新婚夫婦の馬車が街道にまきあげる土埃を,じっと見送ります.第一のグループは,フローベール自身とある種の感性をわかちあう,特権的な人物群とみなすことができましょう」(副読本92ページ)。しかし3についての見解でおわかりのとおり、ルオー老人についての私の読みは異なる。フランス文学の専門家と私、より妥当である可能性が高いのはどちらか。圧倒的に前者だ。
 古典の名作なるものをけなすことは、直接の効果という意味では、空しい。トルストイはシェイクスピアを弾劾したが、それでシェイクスピアになにが起こったか? なにも。また、実際に古典の名作が没落するときに作用するメカニズムは多くの場合、作品理解の変化によるものではなさそうだ。たとえばタッソが沈んだのはおそらく政治的理由だ。
 古典の名作をけなすことの意義は、別のところにある。
 未来に書かれる作品の多くは、かなりの程度、過去の名作の劣化コピーを含む。コピー元がただの「名作」であるとき、コピーは劣化するしかない。コピー元を駄作として認識しなおしたとき、コピーは劣化から脱することができる。改良になる、とは必ずしも言えないが、変化にはなりうる。
 そして、書く場合だけでなく、読む場合にも同じことが言える。過去の名作の劣化コピーとして未来の作品を読んではいないか? 過去の駄作の改良として読むことはできないか?
 過去の名作を疑おうとせず、その評価を静止させれば、未来の作品も静止する。未来を揺り動かそうとするなら、過去を疑い、揺り動かすべきだ。

Posted by hajime at 2011年01月18日 18:33
Comments

エンジェルビーツというアニメの後半、
主人公が仲間達に非常に重要で無茶な説得をする場面で
どんな演説をするのだろうとわくわくしていたら
主人公のしゃべっているシーンに一声もセリフがなく、BGMにのせて演説の光景が流れただけで
その次のシーンでは全員が主人公の無茶な提案に納得していた、
それを思い出しました。
ところでこのアニメ、灰羽連盟の劣化コピーとの評判も高かったのですが
私は、これは変化だと、
作品自体はどうしようもないものだけど
意味のある変化ではあると思っています。

Posted by: 鈴森 at 2011年01月20日 19:04

 TVアニメの『Angel Beats!』は私も見ました。『灰羽連盟』との類似はモチーフ(煉獄のような世界)のことでしょうか。私見では、モチーフの影響は些細なことだと思います。コピーと思える部分を言うなら、宮崎駿との類似が気になります。
 話の辻褄の重要なところをあえて説明せず、登場人物の行動を前景化する手法は、『魔女の宅急便』以降いつも宮崎駿がやっていることです。この手法は、辻褄レベルでのアイロニーを表現しづらくなるという副作用がありますが、そこが宮崎駿の「薄っぺらなアイロニーはダメだ」という姿勢と重なり、愛用の手法となったのでしょう。
 『Angel Beats!』はこの手法を劣化コピーしたように見えます。宮崎駿の手法や姿勢への批判はうかがえません。「宮崎駿だってやってることだから」という無意識の甘えのもとに、この手法を採ったように見えます。
 また、これはモチーフの問題になりますが、最終回付近に登場した特権的なNPCは、まんが版の『風の谷のナウシカ』に登場する庭の主に似ているように見えます。

Posted by: 中里一 at 2011年01月21日 21:32
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